1999.1.26
障害児教育百年奈良県記念誌(昭和54年発行)の144ページに中村佐喜雄先生の「障害児(者)に真の幸せを」という文章を発見しました。昭和54年生駒郡平群東小学校教諭だった中村先生の障害児教育への思いが伝わってきます。
「愛することができないのは知らないからである。愛は知ることから出発する。愛の別名は理解である。」という言葉を昔聞いたことがある。 特殊教育の携わって長らくになるが、私にとってこれ程味わいの深い言葉はない。担任当初より今日迄障害児nお幸せを考えることを生甲斐として来た私は、世の全ての方々に今強く訴えたい。即ち「障害児に深い愛を」と願うのではなく、「どうぞ障害児に正しい御理解を」と。それには教育者、保護者、一般社会人、為政者など全ての人々のバランスのとれた理解がほしい。が現実はそうではないのが悲しい。と言っても他を責めるのではなく、いつ迄たっても満足に行なえない自分を嘆かわしく思うと共に、中でも障害児を持たれる保護者の皆さんの深い理解がほしい。障害児にとってあなた方の力は強い。あなた方親達の前向きな熱意によって私達が励まされ、地域の理解が生まれ、それが障害児の幸せにつながる。今や昔と違い一般社会のこの教育に対する認識はまだまだ不完全乍らもかなり進んで来ている。若し「私の所はそうではない」と否定される向きは、必ずや保護者の姿勢、意欲等に問題がありそうだ。さて私が日頃障害児教育と取り組み乍ら痛切に感じることを二、三述べることにより各位の御批判を仰ぎたい。そこで一概に障害児と申してもハンディの差はかなり大きいが、我々健常者にとっても決して無縁のものではなく、人みな神ならぬ身誰でもなんらかの見えない障害を持つ。障害があって普通。ただそれが軽いので日常生活に支障がないというだけ。障害者と呼ばれる人達は、障害が重い為に日常のあらゆる生活場面で計り知れない苦労がある。このことから考えて障害児(者)とは「顕著な障害を持つ普通の子(人)」と言える。そして誰でもその様な境遇に置かれる可能性を持つ。 という点に着目したい。このことをはっきり認識することにより、一般の障害者に対する偏見や、障害児の親たちのもつ罪悪感も払拭され、前述のバランスのとれた理解に達し障害者の永久の幸せを保障した施策が講ぜられよう。障害者を大切にできない様な社会や国家は今や恥じである。そしてこの教育に金さえかけたらいいだろうと考える風潮もあるが、それ以上にもっと心が欲しい。心のない金だけでは決して幸せに至らない。今年は養護学校義務化の実施で各地にいろいろな問題が起きているらしいがとてもいいことだ。このチャンスを逃がさず国民はみんな自分の置かれた立場で心のこもった論争を闘わし、最後は何とか立派に妥協してこの教育や福祉を前進させたいものだ。そして私は考える。次のメリットとして「障害者の社会復帰の義務化」を。どんなに重い者も真の幸せは地域社会と家庭にあることを再認識したい。(施設不要論と誤解なきよう)そして、我々教育担当者は、そうした温かい社会にうまく適応できる好ましい人間像をつくって行く努力を重ねることになる。(昭和54年)