もくじ 

 第4章 戦後の障害児学級の歴史

第1節 特殊学級の無かった時代(昭和20年から25年)

第2節 奈良県最初の特殊学級開設
  (昭和26年から35年まで) 特別学級から特殊学級へ 


(1)基礎文献「障害児教育百年奈良県記念誌」より

 「その後こういった教育方法の試行は、戦時体制、統制教育のもとに途絶えていったと思われるが戦後新しい教育の理念のもと、いろいろと工夫され、たまたま大和高田市立片塩小学校で能力別学習を進めていたところ、どうしてもついていけない、いわゆるちえおくれの児童のことが問題とされるにいたった。当時、また県教育委員会としても特別に学級を設置することを考えていたこととあいまって、指導課長補佐だった中西正治氏などの指導のもと、南和地方として高田市に、北和地方として奈良市に、精神薄弱児学級をおくという方針がうち出されてきた。31)

 奈良県の初の障害児学級についてもうすこし補足する意味で奈良県障害児教育研究会の歴史についての中村隆宣氏からの聞き取り調査から引用する。

 昭和26年4月に高田市立片塩小学校から県に特殊学級の設置を申請した。当時の学校指導課長補佐であった中西正治氏が南部の高田に出来て北部にないからということで鼓阪小学校に頼もうということになった。10月に片塩小学校に精薄学級が開設されたが自然発生的にできた。11月に鼓阪小学校にも開設された。県は全県的に考えていた。昭和27年に陵西小学校、28年に五条小学校、30年に上市中学校につぎ31年に吉野中学校(上市中学校も統合)に開設された。片塩小学校の詳しいことは障害児学級の30年史に載っている。32)

 奈良県における障害児学級の歴史を語る上で奈良県最初の特殊学級開設校である片塩小学校と鼓阪小学校を抜きにしては語れない。この2校における特殊学級の開 設に至る過程を検証する中でテーマに迫ってみたいと思う。この2校が特殊学級を開設するまでの過程は極めて対照的過程をたどっている。即ち片塩小学校は自然発生的であり鼓阪小学校は教育委員会からの上からの意図的働きかけによってできたのである。まず、片塩小学校における学級開設の経過を「三十年の歩み 障害児学級設置30年記念誌」33)をもとに検証し、その後で、「奈良県教育」の中に載せられた鼓阪小学校の学級開設までの経過を検証してみたい。


(2)偉大なる教育者塚村正夫校長の手腕で奈良県最初の特殊学級開設
 「三十年の歩み 障害児学級設置30年記念誌」より 片塩小学校の場合

 片塩小学校の特殊学級の開設にかかわっては、当時の塚村正夫34)校長の力が重要であった。 それでは、どのような思いが開設に至らせたのか、以下「三十年の歩み」より引用する。

 1)障害児学級設置の発端と経過
1.特殊学級第1号生まれる  昭和26年10月14日、奈良県下に初めて障害児学級(特殊学級)が片塩小学校に誕生した日である。当時全国的にみても奈良県は特殊学級未設置4県のうちのひとつであり、特殊教育の重要性を認めつつも実状は非常に淋しいかぎりであった。文部省に特殊教育室が設置されたのもこの頃で、特殊教育とは「盲唖学校」のことぐらいにしか考えられていなかった。そのような頃、本校に特殊学級が生まれたわけであり、地域・学校の勇気と英断は賞賛にあたいするものであるとともに、その産みの苦しみについては相当なものがあったであろう。何が・・・どのような気持ちが、片塩小学校に特殊学級を開設させたのであろう。当時の塚村学校長のことばをかりると次のようである。「新教育が持つ使命のひとつは教育の民主化である。すなわち民主化された教育とは人間を個人として尊重し、その能力に適応したヒューマニズムの精神に基づいて行われるべきものである。ひとしく人間としてこの世に生まれ、社会生活が楽しく幸福に、しかも健全に育成していけることがそのねらいである。これは個人の尊厳と価値の上に立って、営まれる教育によってのみ完成されるべきものであると信ずる。新しい教育は、児童の要求を充分理解し、その心身の発達の段階をみつめ、これに即した指導をなすべきである。・・・中略・・・私達が教室にのぞむとき、1人や2人はどうしても、いっしょに学習ができず、学級の友達から特別扱にされ勝ちの子どもをみる。これらの子どもが過去の教育において、忘れられた子どもすなわち社会生活に絶えられぬ者、能力の乏しい者、身体に欠陥のある者、経済的に・環境的に恵まれない者等であり、日々忘れられ取り残されていくのである。全国学令児童中には約5%の純粋なる精薄児がいるといわれ、本校においては、境界線級のものを含めて5.1%の数字をみているのである。これら多数の子ども達が、新しい教育の目的から置き去りにされているのであって、彼らは我々教育者の覚醒によってのみ救われ得る。いかにしたらこの子どもが救われるか。いかなる計画と方法によって救い得るか。それは理論ではない。計画でもない。ただ熱と愛と適正なる指導とによるのみである。このやむにやまれぬ気持ち−それが本校特殊学級設置の端緒である。  これを整理して探ってみると、4つの観点にしぼれる。
 (1)新しい教育観より  男女・貧富・堅愚の区別なく、身体的な欠陥や精神的な発達の遅速によって、その教育に厚薄があるわけでない。全ての子どもは等しくその能力に応じて教育を受ける事ができ、均等な機会が与えられるべきである。個人の尊重、個人差に応ずる個性教育、教育の機会均等などは新憲法、教育基本法の趣旨に則る民主教育の根本教育であることは今さら論ずるまでもないことである。このような教育の精神から、最近、特殊児童・問題児の教育の重要性が叫ばれてきたのは当然のことである。本校が精神遅滞児教育をとりあげ、奈良県下に最初の特別学級を設置して全教職員一致協力、この教育に大きく第一歩を記したのもこの精神に基づくものである。
 もちろん、全く、特殊的・例外的なものとして考えているのではなく、私達のとり扱う子どものひとりひとりは、あるいは例外的であり、異常的であるかもしれない。又、その方法はそれぞれに応じた形態・方法をとることはあっても、学校教育の本質、すなわち児童ひとりひとりに応じた全人格の成長発達を実現する事にあって、どこまでも人格全体の姿を求める教育である。
(2)個人差の観点より
 教育の現場において我々の最も困難に感じるのは個人差の問題である。とくに知能にその差がはなはだしい。それによって学習が左右され、学校生活の不適応を余儀なくされている。義務教育の制度においては世界有数の成績を示しているわが国ではあるが、画一的・一斉的・形式的な教育がもたらした結果がこうであり、これら劣等児の大量を、一斉教育のうみ出す教育悲劇としてそのまま見捨てておいてよいものであろうか。人道主義の尊厳を唱えながら実際においてはかえりみられなかった状態である。いかにすればこれらの児童に適した教育ができるか。いかにすれば現在ならびに将来を幸福ならしめることができるか。9ヶ年の義務教育をもつこれら児童にとっては一層深刻な問題である。この個人差を無視し放置しておくことは教育的良心が許さない。教育者はもちろん、社会も国家もあげて、これら忘れられた児童に対して、おのおのの能力や体力に応じた教育環境を提供し、全ての児童をあます所なく社会構成の一員として、彼らなりにその所を得させ、現在の彼らの生活を幸福にすると同時に、将来人たるに価する生活を営ませ、その能力に応じて社会に貢献し、国家社会の良き市民として幸福な生活をおくれるようにしなければならない。
(3)本校における遅進児の実態より
 本校の地域性から考えても、この率は高く、これらの児童は本校職員の格別なる研究心と教育的情熱によってのみ救われ得るものである。
(4)県および市教育委員会の理解と協力より
 奈良県教育委員会においては、新しい教育観に立って早くから特殊教育の必要性痛感され、この方面主任の指導主事を設けられ、この教育の普及と徹底につとめられていた。昭和26年、県下2校特別学級設置のための職員の増員を決せられ、本校に形式的の誕生をみたわけである。高田市としては、すぐに設備費として25万円、経常費5万円の支出を受け、特殊学級編成の基礎が確立した。父兄においては、労働奉仕及び2万円の予算決定など絶大なる援助を受けた。(「輝くひとみ」第3集より)35)

 2)塚村正夫校長の手腕について
 このように、塚村校長の手腕によって奈良県最初の障害児学級が誕生するわけであるが、その当時の様子をもうすこし引用してみたい。「30年の歩み」の中の障害児教育30年の思い出と題した座談会昭和55年7月26日の文より。「初めて障害児学級、当時は特殊学級と申していましたが、造るということは非常に言うはやすく困難な問題がたくさんあったわけです。とくに片塩小学校の地域だけがあったというわけではございません。同じことです。全国みんないっしょです。高田校区であろうと、土庫校区であろうと片塩校区の父兄であろうとみんな同じです。ところが亡くなられた塚村校長がこの教育の重要性に着目されまして、地域の理解を深め、説得することにひじょうに先生は適任だったのです。というのは、塚村先生は片塩地区だけでなく、高田市全体、市長以下全部が自分の子分のような存在だったんです。塚村校長の威厳は、現在の我々の校長どころではないんです。塚村先生の言うことは、全部正しいという、そういうふうな空気があったんです。だから地域社会、高田市全体が塚村先生に反対する者がなかったわけです。だから・・育友会自体も当時、威厳のある人がたくさんおられました。・・・そんな人もみな塚村校長がこうやと言われたら、わかってもわからなくても、みんなそうやそうや。そんなわけで、他の地域では後々、障害児学級をつくるのに苦しまれたけれど、それ程塚村先生自身は苦しまれなかったのです。というのは、塚村先生に対する地域の信望と行政手腕があったわけですな。教育指導や学習指導は殆んどかまわれませんでした。そのかわり行政手腕がありました。だから反対する者は、だれもありませんわな。地域の主だったPTAの役員はそらそうやというのでそしたらみんないっぺん見学に行こうやないかということで、方々へ見学に行きました。それとともに、職員統制もうまかったですわな。塚村先生は。だから全校一致してあたらなければあかんということで全校一致ということになりました。それだけではあきません。実績をあげるためには、やっぱり担任の力がなかったらあきませんね。36)

 3)初代担任米田新一37)氏の決定に至るまで   こうして、塚村校長の手腕で開設するわけであるが、さて担任を決めることになるが、その経過を初代担任の米田新一氏は同じ座談会のなかで次のように述べておられる。  当時、先生方の協力が非常にあったんじゃないかと思います。塚村校長のことなんですが、はじめおっしゃったように担任をあちこち募集しておられたんです。けどつい希望がなかったんで、そこで私に、「おまえもって。」「特殊教育って、なんですね。」「とにかくやったら、いいんじゃ。」ということでした。塚村校長の考え方というのは、「子どもというものは、我々が熱をもって、熱と愛でやっていけ。わからなければわからないで、それを研究したらいいんじゃないか。」ということのハッパをかけられて「そしたら、やりますわ。」ということになったんです。しかし、やろうといったって設備・教具が何ひとつありませんでしたので、予算もないし、「どうするんだ。」そしたら、「各学級へ行って、集めてこい。」各学級をずっとまわったところが“これ学級にあったらいいのに”という備品があるわけです。それをみんな気持ちよく提供いただいたということが環境づくりに役立ちました。普通学級の先生方は苦労されたと思うのですけれど、そういうことを少しも口にださずに気持ちよく、障害児学級に必要な備品は、各学級から気持ちよく提供してくれました。38)

 4)開設初日の印象 「ひとりで食ていける子に」
 このように、片塩小学校の場合は校内から担任が選ばれ、それを多くの先生方が支える中で学級ができていくわけであるが、ではどのような子どもたちが入ってきたのであろうか。もうすこし、米田先生のことばを引用してみよう。
 それから学級の子どもたちなのですが、はじめ13名の希望者があたのです。私の後任が9月に来まして学級を離れてしまって、その間、先生方が家庭訪問をしていただいていたのですが、「おまえもまわってこい。そして、適当に言うてこい。」ということでまわったところが、知った父兄ばっかりだったのです。「先生、どうするんだ。」「とにかく、こっちもわからん。今から研究しなけりゃわからん。実験材料にはしないし、今よりましな子にしあげる。まかすならまかせておき。」「先生、まかします。」ということで、全部13名とも“うん”と言ってくれました。39)
 こうして集まった子どもたちに初代担任の米田先生はどういう力をつけていこうと考えられたのであろうか。そして、奈良県最初の障害児学級の初日の印象を次のように記しておられる。
 ぼくが教員として自信を失ったのは、実は、この学級を担任した昭和26年10月14日なのです。というのは、それまで持っていたすべてを子どもたちによってみじんに打砕かれてしまったということがあるんです。10月14日に先生方が、「みんな教室に入れたんだぞ。いよいよ、いかなければいけないのだな。」ということで教室へは入ったんです。教室に入ろうとガラス障子をあけたところが、子どもたちはぼくをちらっと見たままそ知らん顔をしているのです。普通学級担任の発表のときであれば“1年1組だれだれ”と言えば、喜んだり悲しんだりしていますね。ああいう姿を見ていたのが“この子ら、担任みたいなどうでもいいのかな”教室で13人の前に立ったところが、まだ、そ知らん顔をしている。みんな関心を示してくれない。“名前ぐらい教えてくれ”と言っても教えてくれないし、何も話してくれません。どうすることもできないので買ってあった画用紙とクレパスをみんなに与えて、「何でもいいからかいてみなさい。」と言ったところが、机の上に画用紙を置いたらそのまま何の反応も示さない。だんだん嫌になってしまて“かってにしとけ。職員室へ行ってくるぞ”と言い残して職員室へ行ってしまったんです。そして、校長さんに、「これ、いったいどうしたらいいのやろか。」「その研究をしたらいいのじゃないか。」ということでした。しばらくたって、教室へ覗きに行きますと、子どもたちもたいくつしたんでしょうね。外へ出たら叱られるということもあって、かきはじめているのです。“これはしめた”と思って教室へ入りました。入ったところが、とたんに画用紙を裏返し隠してしまうのです。“ちょっと見せてくれや”と言うとかまえてしまう。“やっぱりだめか”と思って“今日はもうこれでいいわ。もう帰ろうやないか。”ということで子どもとそうじをした。ほうきの持ち方も何も知りませんし、何とかそうじをして帰らせたのです。帰した後、教室でどうしたらいいのかなと考えました。画用紙を人に見られるのがいやなので、机の中にみんなほうりこんであるのです。出して見たところがへんてこな絵であるし、何かよい突破口がないかなあということで、私自身絵をぐしゃぐしゃにかいたのです。そしてあくる日、学校に行くと子どもたちは休まないで来ているのです。ぼくの絵と子どもの絵の優秀作というので、いっしょに貼ってみたのです。“どっちがじょうずか”と言ったところが、また知らん顔“指ぐらいさしたらどうか”と言ったら子どもの方を指さしたのです。そこで“先生の絵はこれや”と言ったら、子どもたちがたいした先生でないなと思ってくれたんでしょうな。やっと“見せあいしょうかな”と言って、にたっとしながら広げてくれました。“おまえうまいな。じょうずやないか。”と言うと、みんなはじめてぼくに心の窓を開いてくれました。そういう事実からいったい教育って何だろうかなと、今までもっていた先生というのは、こういう先生であれば子どもはひっついてくると思っていたんですが、根本的に考えなおさなければいけないんだと、また、この子どもたちとどんなことがあっても、いっしょに歩んでいかなければならないのだ。そういう覚悟をきめたのが10月14日・15日の時点なのです。だから、もう子どもと遊んでいる中で何かを見つけていこうと、そうこうしているうちにそんなことをしていても子どもたちはどうにもならない。やはり、何かの力をつけなければいけない。“この子どもたちに、ひとりで食べていける子にしたらいいんじゃないか。ひとりで食べていける子にするためには何が必要なんだろうかな”ということを逆に考えていったわけなんです。この子たちは、やはり人との接触が大事じゃないかな。社会性をつける、そのまえにやはりことばで話しができることばの指導という読み・書きよりも、話しことばを中心につけていってやることと、やがて社会に出ていって人に迷惑をかけないようにするには、身の安全を自分で処理できるように知っておかなければならない。そういう意味でひとりで食べていける子にという簡単な目標だったのですが、こうあれ、あああれということでやってきただけ。その後、子どもたちはだいぶ心の窓を開いてくれまして、それに親たちが寄りついてきてくれたのですね。ぼくは今の先生方によく言うのですが、まず、親ごさんにほめられるような先生になることが障害児教育のいちばんもとじゃないかと思うのです。当時、具体的には何をやっていいか手さぐりの状態でしょう。親にしてみたらもう少し力をつけてほしい。漢字のひとつも教えてほしいという願いがあるのです。だから、先生についてかなけりゃそういうこともできませんので、親が先生に惚れることがよく来てくれました。毎日、2〜3人たむろしていました。それである時は“先生、今日は一日じゅう遊ばしてや”“遊びなさいよ”というような気持ちで接し、一日子どもの世話もしてくれる。こんなことをしながら、ぼくと親たち、普通学級の先生たちがそんなことをしているうちに、子どもたちも芽生えていったのではないか。さっき、先生の質問にもあったように教育の目標は『ひとりで食うていける子』に育てるということで、学級にいた子どもたちにはそればかりを主張してきました。40)
 5)実験学級の増設と発展
 このようにして米田先生によって片塩小学校の実験学級41)がはじまったわけであるが、その翌年にはその効果が新聞で大きく宣伝されずいぶん遠くの校区外からもたくさん希望者が集まり、もう1学級増設するまでになった。実験学級Aは補助学級としてまた実験学級Bは促進学級という形ですすめられた。このように、片塩小学校は奈良県の障害児学級の中心的な学級として発展していくことになる。その伝統が障害児学級設置30年記念誌というりっぱな冊子としてまとめられている。そして、この片塩小学校から奈良県障害児教育研究会が誕生するのである。 

(3)教育委員会からすすめられて奈良県最初の特殊学級を開設
  「奈良県教育」より鼓阪小学校の場合

 「精神薄弱児」にも明るい希望の時が来た。教育は人間の成長発達への助成であり、それはいかなる素質、能力、環境の者にも平等に与えられねばならない。今日精神遅滞児盲聾児への特殊教育が、大きくとりあげられて来たのも、新教育の原理更には新憲法の精神に基づくものである。「忘れられた子」等への教育が忘れられてはならない。特殊学校、特殊学級への関心は深まりつつあるが、普通学級においても遅進児の個人差に応ずる教育が考えられねばならない。昭和25年「奈良県教育」10月号−窓−より42)
 仮説 特殊学級ができたのは、たまたま能力別学習をすすめていてどうしてもついていけない、いわゆるちえおくれの児童のことが問題になったからなのだろうか。そうではなく、能力別学習を必要としたのは、長期欠席問題があったからである。長期欠席児童の遅進児対策として能力別学習を必要としたのではないか。その長期欠席児童の多くがいわゆるちえおくれやその他の障害をもっている児童が含まれていたから後に障害児の問題が顕在化したのである。その結果として特殊学級が設置されるに至ったのではないかというのが私の考えである。その過程を鼓阪小学校を例に検証してみたい。


 1)長期欠席児童問題から遅進児対策としての能力別学級編成へ


 昭和25年に鼓阪小学校教諭村田平氏が「問題の子供(A君の巻)」と題した研究論文を「奈良県教育」に書いている。3年生の普通学級担任をもつことになる。「校長より渡された五十七名の子供は私の教育道への同行者であり私の生命力喚起の原動力であるとしみじみと感じた。前学級主任から渡された指導要録、親切な指導上の注意点の説明、まだ見ぬ子供への教育計画が次々と脳裡に浮かんでくる。早速指導要録を一枚宛ながめていくうちに数名の欠席多数の子供が眼にとまる。一ケ 月間、二ケ月間、半ケ年、一ケ年、二ケ年間の長期欠席である。私はここに大きい問題のあることを直観した。43)」当時の長欠問題は今日の登校拒否による長欠ではなく貧困と家庭環境からくるものが多く家庭訪問をして親を説得して学校にこさせる。しかし、学力がついていかず最初は自分の名前を書く練習、十までの加減、小一年の国語の本読みからはじめた。しかし喧嘩になり問題をおこす。「一学期間に学校生活になれ、学習に自発的な態度も見られるようになったことは喜ばしい。然しこうした完全な遅進児を他の学友と共に学習させることは極めて困難なことである。能力別学級編制の問題、合理的能力別グループ学習、能力別個人指導、等々能力差の多い学級に於ける適切な指導法の研究に努めなければならない。44)」と報告している。

 昭和26年「奈良県教育」8月号の特殊教育特集のなかで鼓阪小学校の「我が校の能力別指導について」の報告では、「日々の学習指導に能力別指導を強力にとりあげ、その研究実施と取り組まねばならぬと考えたのは昨年度当初のことであっ た。その理由は色々あるわけであるが直接の導火線ともなったものは欠席多数児童対策にある。この状態に於て仮に他の如何なる方法によって出席を促すとしても、学校の学習そのものに殆ど理解も興味も伴わないとすればそれは徒らに強制された登校に過ぎないのである。従って本校はそれ等の児童は勿論、知能的遅進児を含めて能力別指導を取り上げる事によって、根本的に児童の学習活動に楽しみを持たしめようとしたものである。45)」とのべている。このように能力別学級編成の理由が長欠児問題を契機としたことがはっきりと伺われる。  普通学級内でのグループ学習から学級の枠をはずした能力別学級編成による学習指導(週一回、国語、算数のみ、上組・中組・中下組・下組の四段階能力目標)へ発展し、さらにその能力別特別学級内をグループ 指導(三つのグループ)に細分化していく。この方法は養護学校や障害児学級の発達課題別グループと同じ様な考え方である。また、へき地教育における複式学級等の学習方法に通じるものがあるのではないかと思う。現在の習熟度学習やチームテーチングにも通じるものがある。  それではどのような能力別指導がなされたか具体的にみていきたい。まず一学期を基礎調査期としてその能力差の実態を把握するために各学年ごとに国語、算数の学力テストを実施している。その結果に知能段階の調査、出席状況、家庭環境の調査等も併せて考慮し、次のような反省をひきだしている46)


1.学習指導に不備な点があった事 A.学級定員過多の為、学力的問題を顧みる余裕がなく、必然的に画一教育が多量におこなわれていた。 B.同一学年児童の個人差が大であるから単元学習において各児童に学習の地位を与え得なかった。 C.学業歴の欠陥に対する考慮が不十分であった。
2.教育に対する家庭の関心度そのものに大きな傾向がある事それがそのまま児童の能力差として表れている事
3.学習環境の整備が不十分である事
 これをうけて二学期より対策実施して次の4つを報告している。
1.普通学級におけるグループ学習の活用 2.普通学級に於ける遅進児の実際指導記録 3.能力別学級編成による学習指導 4.能力別特別学級に於ける実際指導記録
 普通学級に於ける遅進児の実際指導記録として第四学年算数科指導(坂内教諭)の報告を見てみよう。学級に於ける遅進児の状態として在籍児童五十五名中劣等児は七名(男子五名、女子二名)精神薄弱児二名(男子一名、女子一名)遅進児五名(男子四名、女子一名)であった。その精神薄弱児中男子一名は幼時強度の中耳炎におかされたが、女子は病的原因なし。算数科特に計算技能取扱の実際例として精薄児の場合の対策の具体的方法として25+3等を落葉集めや石拾いによって具体物による数の構成から計算の技術的な練習に至る6ケ月間の詳しい報告をしている。「勿論出席常ならざる者が大部分であるから相当の期間をかけても尚成績を余り見るべきもののない事は止むお得ないと思う。以上のような対策は精神薄弱児の外遅進児にも試みたが、その結果薄弱児に比して遅進児(長欠の為の者が多い)はその進歩が割合早く理解も早い様である。47)」と述べている。これはあくまでもその前年度に普通学級一つの学級の中での実践であり主に算数の授業での担任の個別配慮として行われたものである。これをうけて次の能力別学級編成による学習指導に発展する。

 2)能力別特学級編成による学習指導
「各学年毎に学級の枠をはずして能力別学級を四段階に編成して学習を行う。 然しこの方法は本校の様に能力差の甚しい場合の一方法として特設したもので従って基礎学習として算数、国語の二教科に限りて一部この方法を行っている。即ち能力目標や、指導内容を四段階に計画し毎週各一回づつ指導をつづけて来ている。48)」その能力目標の例を第三学年における算数科能力目標を見てみよう49) 。
( )内は程度。
上組 1、現段階に於ける諸能力を拡充し更に発展させる(三年)
   2、各種の生活問題を数理的に処理する能力を養う(三年)
   3、基礎技能の習熟(三年)
中組 1、既習教材を徹底させる(三年)
   2、基礎能力をねる(三年)
   3、生活問題を数理的に処理する能力を養う(三年)
中下組1、現段階に至るまでの能力の困難点の打開と練習による習熟(二三年)
   2、1000迄の数の加減の技能と掛算九九利用の能力を向上させる(二三 年)
下組 1、能力に応じた加減の練習をする(一二年)
   2、程度に応じた生活問題の数理的処理の能力を養う(一二年)
   3、数字と計算になれさせる(一年)

 このような能力表を基準として各指導計画によって実際指導にあたるが、その四段階の各組毎においても能力差を考慮しなければならない。その例を第六学年の算数科下組の実際指導記録から見てみよう。最低能力クラスの実態 人員三十六人 を四則計算力調査の結果からABCDEFGの7段階に実態を明らかにし、それをA・BグループとC・D・EグループとF・Gグループの三グループに分けて指導している。  第二学年算数科下組指導の感想(谷教諭)より具体的に担当教師がどうとりくみどのような感想をもったかみていきたい。  九月中旬、秋風もそよぐ頃学級解体の能力別指導を開始した。二年全員を四段階に分け、私は下組の指導に当つた。児童数三十五名。 開始当日各学級より集つた児童の出席をとると、すでに欠席者五名放浪して教室に入らぬ者五名、ノートを持参せぬ者七名、雑音甚しく粗暴な態度、学習意欲等殆んど見られず揃いも揃つた役者ばかりの姿に、私は只茫然とするよりなかった。然し之ではと敢然勇を鼓して児童の前に立った私の頭に一瞬「児童の興味から」と強く感ずるものがあった。「皆何をしてほしい?」「お話」すぐに答えて来る児童に私は静かにお話をはじめた。そして忘れ物や、返事についての指導も加えた。 第二次指導である。欠席者四名、放浪者三名、呼びに行くも頑として入らない。今日も相当な雑音であるが簡単な童話などによって注意の集中を計り百まで数える稽古、数えた者に対する賞揚の言葉、数えられないものに対する指導、全然数えようとしない者十五名もいる。「次はきっと皆さんも数えましょうね。」と約束する。 第三次指導である。欠席者五名、放浪者今日は一名もない。百まで数える練習数えられるものは書く稽古、二百まで書ける者八名百まで十四名、五十まで五名、二十まで二名、書こうとしない者や筆記出来ない者五名、書き上げたノートに一重、二重、三重と丸をうってやる。児童達は皆うれしそうである。「先生もう一ぺん書くよ。」又書き出す者も何名か居る。(中略)十月中旬に入ってこの下組グループをAグループ(読解力、数理的観念が現学年に近づきつつある者十名、Bグループ(数理的観念が相当になったが読解力に劣るもの)十七名、Cグループ(計算筆記力劣る者)五名及(精神年令幼稚知能指数劣る者)三名の三段階に分け学習を進める。秋もようやく深くある頃は正倉院、大仏殿の裏庭に落葉やどんぐり拾いの校外指導によって、いよいよ子供達の学習意欲を深めて行った。そして週一回のこの時間を子供達は待ち切れない迄になってくれた。第三学期に入ってからは下組より中組に上がり得る者三名、中下組に上がり得る者九名までになり、今迄の学習状態と変って来たと他学級担任からも云われる様に迄こぎつけて来た。僅かの差で踏み迷い開きの出来ようとしている忘れられ易い児童の為、低学年より中学年へ、中学年より高学年へと温かい永い気持で親切でたゆまない努力の必要を痛感する。50)

 3)戦前の分団教育や桜井小学校の促進学級や養護学級との比較について
 このように障害児学級及特殊学級として制度的保障のないなかでの遅進児の鼓阪小学校の取組は、戦前の桜井小学校の促進学級ときわめて近い形態であった。戦前の桜井小学校がフルタイムの学級であったのに対して戦後の鼓阪小学校はパートタイムであったという相違はあるが、構造的にはきわめて近い。
 もう一つ特徴的な事は、奈良女子高等師範附属小学校の特別学級でおこなわれた分団教育ともきわめて類似した構造をもっていることに気が付く。グループ学習とはまさしく分団教育そのものである。
 障害児学級だけをみていてもわからない。なぜなら障害児学級は学校教育全体の中で規定されていく相対的な存在であるという側面を持っているからである。菅田教授のゼミでの助言のように、「その時代の能力観によって学校に要請され、その能力観によって規定されていく」という言葉が示唆的である。
 桜井小学校では能力別学級編成を普通学級の学級編成の基準として固定化する中で促進学級や養護学級特別学級が出来ていく。鼓阪小学校の能力別学級編成はあくまでも基礎集団としての学級とは別に国語と算数各週一時間のみの特設の学習集団である。戦後は教育の平等という観点から基礎になる学級は平等に編成され能力別編成を基礎学級編成の基準とすることは差別ととらえられてきた。  能力別学級編成をつきつめていき、学年の枠を取り払い一つの学級として編成され、制度として教師が派遣されるとここに特殊学級が誕生する。

 4)鼓阪小学校での能力別指導と特殊学級開設の関係について
 このように長欠児に対する取り組みとしての能力別学習指導が結果として障害児の存在を顕在化させたわけであるが、それがそのまま自生的に特殊学級を産み出したのではなかった。特殊学級誕生のためには行政による上からの意図的な働きかけが必要であった。すなわち、当時県教育委員会指導課長補佐であった中西正治氏の存在が無視できない。  「画一一斉の指導では、その目的を達成することが不可能に近かったので、能力別学習指導を取り入れることになった。而し限られた我々教師の力では、尚その方法に於ても、救い得ない児童が生じ、平素我々の頭を悩ましていた。ところが、たまたま県教育委員会より我が校に、低IQ児教育の実験的研究を目的とした学級設置方を進められた。幸い我が校の研究と相通ずる所を思い、進められるままに特別学級を設置することに決意し、全職員協力のもとに運営を始めた。51)
 ここで注目すべきことは、当時は特殊学級ではなく特別学級と呼ばれていたことである。戦前における特別学級の概念を継承して使われているのであって、特殊学級の概念がまだ定着していなかった。それだけ、一般化していなかったともいえる。もう一方の高田市の片塩小学校の学級名におてもそのことがうかがえる。障害の比較的重い精薄学級を補助学級とし、比較的軽い学級を促進学級と呼んでいた。ここにも戦前の概念でとらえられていることがうかがえる。  

5)昭和26年鼓阪小学校に特別学級ができる 初代担任松井常雄氏
 特殊学級が出来るまでの経過について初代担任松井常雄52)教諭の「特別学級教育の実際」の中からみてみたい53)
 鼓阪小学校での過去二年間の能力別学習指導の中から、それでもなおともすれば忘れ勝ちな児童があって、常に担任の悩みとなっていた。第二学期になって、これらの児童を集めて、特別学級を編成することになり、学級担任より該当者を提出し職員会議にはかって決定した。 選定した児童と編入決定児童 知能テスト、日常の学習活動、行動の観察を規準をもとに各学級より選定し、最後に職員会議に於て決定した。決定した児童は、知能指数大体七〇以下の低IQ児十 一名で、普通児と共に学習困難な者である。こうして、決定した児童について、保護者の了解に努め、最後的決定となった者次の九名であった。
 当時の学年で、一年(男一名女一名) 二年(男二名) 三年(男一名) 四年(男二名女一名) 五年(男一名) 特別学級教育開始と普通学級 開始期日 昭和二十六年十二月十八日
 こうして準備されて昭和二十六年十二月十八日に特別学級が開始された。しかし担任は校内の職員からではなかった。年度途中に中学校から転勤してきた松井常雄氏が担任になる。松井氏がどういういきさつで担任を 持つことになったのかは、亡く なられたのでわからない。しかし、夫人からの聞き取り調査では、三笠中学校の体育の教師でバスケットボールの専門であったとのことである。片塩小学校の場合は校内から担任を選出しているのに対し、鼓阪小学校の場合は校外より転勤してきた教諭に担任をさせていることが、教育委員会からの要請によって開設したことからくるように思える。松井氏は昭和26年の12月から28年3月までの1年4ヶ月間担任としてその後中学校にまた転勤している。
 松井氏の在職が1年4ヶ月と短かったことから奈良県で最初の学級がかなりの困難であったことがうかがわれる。

 6)西村幸治氏が 昭和28年から2代目の担任に就任
 初代の松井氏が転勤し、困った校長が東市小学校より転任してきた西村幸治54)氏に担任を命じる。当時の様子を西村氏は次のように記しておられる55)?BR>  昭和28年4月奈良市立鼓阪小学校に転勤するや、本人の意志等全く聞くこともなく突然障害児(精神薄弱児)学級担任を命じられたものである。昭和26年に奈良県下にはじめて鼓阪小学校を含め三校三学級が実験的に開級したばかりであり、しかも鼓阪小学校では前任者が苦心惨たん学級経営にあたったが、残念ながら成果を見ず止やむなく転勤してしまい、校長は困り果て有無を言わせず担任を命じたのである。本人としては晴天の霹靂、いまだかって障害児(精薄)教育についての知識も経験も皆無であり、到底その任を果し得る自信などある筈はなく、校長に担任返上を強く要望しても聞き入れられず、文字通り煩悶に煩悶を重ねながら、食事も喉を通さず苦しみ抜いた結果、或る日突然“障害児教育こそ教育の原点なり”と悟るに至り、今眼前にいる恵まれぬ障害を持たされた薄幸の児童達の担任を一身上の都合のみで切り捨ててしまえば、いつの日か、誰が受け持つのであろうか。前人未踏といっても過言ではないこの教育を私が担任を引き受けることこそ天命であり、及ばず乍ら師範学校出身海軍現役兵として連合艦隊に乗り込み第二次大戦に従軍してかろうじて帰休したものの一命は既に御国に捧げ乍ら不思議な因縁にて命永らえ再び教職に奉じた以上、何が何でもやりとげねばならぬと考えつき、一大決意のもと、爾来関係の研究指導書を探し求めて読みふけり、或は学校長に願い出て他府県の障害児教育先進校を訪問して教えを乞い、日夜研究努力を続けた結果、困難を極めたこの教育にもようやく光明が見え、除々ではあるが教育効果もあがりつゝあり県内の数少ない該当学級担任と絶えず連携をとりつゝ共同研究に励み逐次学級が漸次増設されるに及んで、障害児(精薄)教育の先達開拓者として活動を続けてきたのである。  このように当初は校長から一方的に命じられたにもかかわらず西村幸治氏は昭和41年3月までの13年間の長きにわたって奈良県の障害児教育の開拓者として以下の様な大きな業績を残されたのである。
 昭和29年、前年度の学級経営の記録をもとに研究をまとめ上げ奈良市教育研究論文に応募(精薄児の生活指導)、はからずも最優秀賞を受賞、続けて30年(精薄児のパーソナリティ)、31年には(精薄児教育の教具の工夫)で連続最優秀賞に輝き、同年昭和31年文部省の障害児(精薄)教育研究指定を受け、翌32年11月遠く岩手県花巻市に於ける全国大会において堂々とその研究成果を発表した。 昭和33年県教委より推薦を受けて読売教育賞に応募、奈良県として初めて第7回読売教育賞56)(精薄学級部門)受賞の栄誉に輝き、また昭和39年より三期(6年間)奈良県教育委員会指導委員(障害児教育)を命じられ、障害児学級を担任(通算13年間)し乍ら当該指導主事と共 に現場指導を重ね乍ら本県障害児教育の充実振興に努力貢献してきた。
 このように、西村先生は、当時は教育委員会に障害児教育専任指導主事もなく、文部省でさえ特殊教育室で辻村泰男氏ら2名しかおられなかった時代に、奈良県の障害児学級の草分けとして活躍された。「参考書がないので困った、大阪や京都の 障害児(精薄)教育先進校に出向いて教えを乞い乍ら、はじめの開拓がたいへんだった。」とのべておられたように、まさしくパイオニアとして、全国で2人目で奈良県としては初めての読売教育賞を受賞されたのであった。先生は当時奈良教育大学に養護学校免許取得の為めの認定講習は数少なく、必要単位を一刻も早く取得する為めに京都や大阪の教育大学に、奉職校校長の許可を得て受講して該当免許奈良県の第1号であり、まさしく障害児教育の草分け的存在であった。また、昭和51年より奈良県教育委員会の指導主事としても活躍され就学指導や各種研修の講師として奈良県の障害児教育発展のために貢献されたのである。先生は美術が専門でもと奈良県美術協会会員として現在療養中乍ら絵画制作に専念されている。先生の指導主事時代によく相談にのって斑鳩小学校で最初に障害児学級の担任をされた中村佐喜雄先生(66才)が、退職後岡山でモンテ微塾足守仲良しホームを退職金を投じて経営されているNHK岡山のテレビを録画したビデオを紹介していただいた。モンテ微塾のモンテはモンテソーリにもとずく健常児や障害児の幼児教育からとってきたことばで微はステップが細かいと言う意味で、ピアノや音楽にあわせてこくごの本を朗読したりする音楽療法で障害児教育をされている。現在にもつながる実践として興味深かった。こうして、奈良県最初の二つの特殊学級をみてきたわけであるが、鼓阪小学校が奈良県教育委員会の中心的な特殊教育の推進校として発展していったのとは対照的に、片塩小学校は奈良県特殊教育研究会の中心的な役割をになっていった。

(4)奈良県特殊教育研究会の結成 昭和29年

 さて、奈良県の障害児学級の歴史を語る時、奈良県全体をまとめるうえで中心的な役割をはたしてきた重要なものに奈良県障害児教育研究会の存在がある。このもとになった奈良県特殊教育研究会の発足の経過についてみてみたい。また、基礎文献である「障害児教育百年記念誌」より引用する57)
 こうして精神薄弱児教育で、戦後これが学級として最初に発足したのは、昭和26年、大和高田市立片塩小学校(4月認可10月開級)と奈良市立鼓阪小学校(4月認可11月開級)とである。大和高田市立片塩小学校は文字通り草分けで、この学級を「実験学級」と呼び、翌27年には複数設置して「実験学級A・B組」とした。爾来ここを中心としてこの教育に意欲的なとりくみられることとなった。文部省の主催する特殊教育研究集会に参加したり、今の全国特殊教育連盟へも学校として参加し、本県の障害児教育研究会が加入する先がけをつくっている。また「手をつなぐ親の会」(現在の手をつなぐ親の会とは別)を結成して自らの研鑽とともに地域への働きかけも手がけている。翌27年同じく、大和高田市立陵西小学校に開級(10月)し、さらに28年に五条市立五条小学校にも設置された。やっとここで4校に5学級が設置されたのである。やがて研究会の組織化へと動くのだが、片塩小学校の米田新一氏、鼓阪小学校の松井常雄氏らが中心となって計画に参加、28年10月19日県立畝高等学校において、奈良県特殊教育研究会の設立準備委員会を開催して規約(案)の審議、会長に片塩小学校校長塚村正夫氏をえらぶことなどを決定するにいたった。
 昭和29年6月、第1回の総会を橿原市立八木中学校において開催、さらに県下に学級がふえていくことを見込み、○理事を郡市より1名ないし2名選出する。○理事中より、会長1、副会長2、を互選する。○書記、会計は会長が委嘱する。ほか会費についてなど、11条からなる会則を制定した。つづいて近江学園の糸賀一雄氏の講演を聞き、一致協力してこの教育の推進に力をあわせることを約してここに名実ともに雄々しく奈良県特殊教育研究会が誕生したのである。
 この奈良県特殊教育研究会がばらばらになりがちな障害児学級をまとめる中心的な研究団体となって県内の障害児教育を引っぱっていくのである。その様子を現在二上小学校の校長で長く研究会の会計と事務局長として活躍された中村隆宣氏に伺った。以下がその内容である58)
 昭和28年鼓阪小学校の松井常雄氏、片塩小学校の米田新一氏、陵西小学校の西本幸孝氏が研究会をつくろうと相談して、10月19日に畝傍高等学校で準備会を開いた。昭和29年第1回総会を八木中学校で開いた。この総会で会長1名副会長2名理事を各群市より出す等11条よりなる会則を決定し、近江学園の糸賀一雄氏の講演があり、奈良県特殊教育研究会が発足した。
 なお、その後の研究会の歴史についてもお聞きしているが、それぞれの年代の節で順次引用していくこととする。

 (5)小学校の特殊学級に残って委託生となっていた中学生

 昭和26年に始まった奈良県の特殊学級はその後昭和37年から始まる特殊学級増設五ヶ年計画による計画設置まで殆ど増えなかった。
 特に中学校の障害児学級は昭和30年になるまで一学級も開設されなかった。昭和30年に吉野上市中学校に一学級開設されてからも昭和37年の計画設置まで増えなかった。その間本来の障害児教育の対象となるべき中学生の子供たちはいったいどうしていたのであろうか。 一つ考えられるのは、普通学級に在籍していたということである。 二番目に考えられるのは就学猶予免除になっていたということである。 三番目は、当時の多くのレポートや論文から小学校の特殊学級で委託生としてそのまま残って教育をうけていたという事実である。
 県下の特殊学級には小学校・中学校に関連性がないために、小学校のとき特殊学級にいた児童が中学校へ行くようになって普通学級へ行かなければならないという児童。また小学校のときは普通学級にいて中学校へ入学してから特殊学級へ入るなどの問題が生じてくる。後者の方はまだよいとしても、前者のように小学校時を特殊学級で過ごし中学校へ入ってから普通学級へ入るのでは特殊教育としての意義は半減してしまう。ところが奈良県下の現状では第11表が示すように、中学校の特殊学級はわずか一校しかなく、それも生産学習の関係上男子のみで編成しているため小学校で特殊教育を受けた他町村の児童は特殊学級のある中学校へ越境入学するか、あるいは第11表の合計の欄のかっこの中の数が示すように、小学校特殊学級の委託生として教育されているような不自然な形をとるかである。(井須秀夫59)「奈良県特殊教育の現状」昭和36年第11次日教組教研集会レポートより)資料がしめすように7校の小学校の特殊学級すべてに合計25名の中学生が教育を受けていたのである。
 仮説 昭和20年台後半から昭和30年台後半まで特殊学級が増設されなかった理由として奈良県の独自性としてのへき地教育に教育委員会が力を入れなければならなかったからではないか。
 それを証明するかのように、昭和30年の「教育年報」60)をみてみると、特殊教育の記述が消えている。それまでは、毎年なんらかの記述がみられたのに、この年だけなくなっているのである。そのかわり、へき地教育の振興の中で次のような記述がみられる。「機会均等を理想の一つとする国の教育施策の中で、二つの真空地帯をもっている、一つは特殊教育の問題であり、他はへき地教育振興の問題である。前者は本人の問題であり、後者は地域社会の問題である。61)」さらに、「従来のへき地指定基準を抜本的に改正する方針・・国の動きから・・15校のわずかが指定されていたが、104校の多きが指定されることになり・・62)」とうい理由で特殊教育が後回しになったのである。事実、この時期から多くの学校の統廃合が行われていくのである。

(6)奈良県の中学校最初の特殊学級について 昭和30年

 1)中学校の特殊学級について 中村隆宣氏からの聞き取り調査より

 奈良県の中学校最初の特殊学級について中村隆宣氏からお聞きしたことを以下引用する63)
 昭和30年東大寺整肢園開設。上市中学校に奈良県初の中学校の特殊学級が開設される。上市中学校は翌昭和31年に統合され吉野中学校となり精薄学級ができる。昭和32年には、橿原市の光陽中学校で市費で教員を採用して障害児学級を経営していたが続かず消えてしまったとのことである。中村先生の話によれば、当時中学校に特殊学級が出来なかった理由は、教科担任制がネックになったことと、当時は中学校で終わって高校にはいかなかったので障害児学級では就職が出来ないということがあった。 (なお、奈良教育大学研究紀要第14号昭和53年3月奈良県障害児教育運動史研究(1)年表づくり、大久保哲夫氏他によれば、昭和28年にも橿原市立光陽中学校と高田市立片塩中学校に未認可で特殊学級とある。64)

2)吉野上市中学校坂口京一先生聞き取り調査より

 奈良県最初の中学校の特殊学級が小学校に特殊学級のあった若草中学校65)や片塩中学校にできずに吉野上市中学校にできたのか?そんな疑問をもって、当時の吉野上市中学校の担任だった阪口京一66)先生をお尋ねして、聞き取り調査をさせていただいた。以下はその全文である67)
??なぜ吉野に最初にできたか?開設の経緯について  小学校の特殊学級があるからつくるというような安易な考えではなしに、なんとかしてやろうという気があって研究会に参加していた。1学年5学級220〜230人の中に落ちこぼれの生徒がいた。その生徒を放課後よんで遅れている分について自主的に補充をやった。本人が喜んでなんとかしてやろうやないかという気持ちで校長に相談した。校長もやる気があって、職員会議で校長が方針を打ち出して職員もそれに従うことになった。しかし、父兄への啓蒙が難しく、何回か授業参観の時に校長に啓蒙の話をしてもらい、それはいいことだと納得してもらった。
?どういう子を対象にしたか?
 特殊学級とか特別学級とかいう名前に抵抗があり、名前がどうもおかしいやないかといろいろ考えた。一番根本になるのはIQ60以下あるいは50以下のそういう生徒だったら近所の人や親とかは、ちえおくれとわかるが、その数は少ないので悩んで促進学級的な意味もかねてIQ80〜55までの生徒を対象とした。教育の成果が早くあがるのではないかと思った。小学校の片塩や鼓阪にも授業参観しに行ったが、IQの低い子が多くボタンのとめ方の勉強をしていた。中学校でそんなことをしていたら、自立させてやりたというのが願いであり、3年間すめばすぐ実社会に出ていかなくてはならないので、IQをそういう基準に置いた。教育効果が早くあがるのではないかと出発した。片塩小に障害児学級があるからそれが中学校へ流れるという安易な考えではない。自立させてやりたいという目的でした。小学校でしているから中学校でするというのは簡単だ。人だのみでなく自立させてやりたいというのが目的。話をするとき簡単な言い方をすると「頭でくていけるか、手でたべていく」そういう目標を持って、なんとか頭で食べていけない者は、手で食べていくところから出発した。賢い子偉い子をつくるのではなく、立派な子をつくろやないかという目標で進んだ。立派な子とは、ただのペーパーテストではなく、すべてにおいて世の中にでても恥ずかしくない子にということで出発した。そういう目的で出発したけれど、名前が差別につながるということでさて何人の生徒がくるか・・・。そういう対象児をIQ、成績等からリストにあげた。しかし、親と本人に納得してもらわなくてはいけない。私が成功したのはどこかというと、家に出向いていって内容を説明して「3年間俺にまかせてくれ、なんとか喜ぶような成果をあげてみせる。」と言った。なんとか自立させてやりたということで説得したところ、希望者が多く、30人になった。IQの高い者をオミットして15〜16人で出発した。親に「とにかく俺に3年間まかせてくれ」とうまく説得できた。学校に来ていてもおもしろくない。おもしろくないものを子供におしつけるのもいけない。なんとかのびのびした生活をおくらせてやりたいと親に話をした。いい結果がでて親も納得してくれた。成功したのは3年間まかせろが一番成功した。昭和30年ごろにできた。県もすんなり認めてくれた。自主的によんでやっているのを校長も知っていたし、県としてもそういうことをすすめておったように思う。一番の苦労はIQの60〜80という生徒は一見すると区別がつかないことだ。そういう子を対象にしないと中学校は3年間しかなく、IQ50以下の者は、中学校の教育課程でない。私は施設をつくりなさいと盛んにい言っていた。頭の遅れというのは、親としても理解できない。手足の不自由ならすぐわかるが、頭の遅れの子は勉強ぎらいだとか成績が悪くても世の中に出て成功している人はいるといってなかなか理解できない。中学校卒業したら就職できるか心配だった。一番うまくいているのは、職業的には左官、大工、飲食店の経営やプロパンガスの卸業などを営みりっぱに自立して生活している。中学校卒業したとき就職がうまくいかなかったら、自分で何か仕事を養成するところを作ろうと思っていた。独身で家のほうでもなんとか私の収益をあてにしてなかったので、子供を家に連れてきて寝泊りさせて24時間教育という意味でしたことがあった。四国から吉野貯木場に親が仕事に来ていた生徒でふとんもなく、母親もいない男親だけのため三食の食事が正しくとれないので家に連れて帰って正しい食事をさせ、正しい睡眠をとらせた。こたつもなかった。正しい生活をさせると下痢をおこした。なんでかと思ったら、人間というのは環境が変わると身体的に何かあるということを勉強した。人から言われてしたのではなく、なんとかしてやろうということでした。昭和30年から34年までの5年間特殊学級をもった。その後はだんだん人数が減ってきた。5年間には教育大学の先生が見学に来られた。すいこみに来られた。心理学専攻は教育面ではプラスになるが子供がこないと教育にならない。成功したのは「なんとか3年間まかせてくれ」と言って説得したことだ。
?男子ばかりだった理由は?  はじめの出発が男の子ばかりだったから。失敗したら奈良県の特殊学級が失敗するので・・・。女子と男子とのトラブルやいじめなどあったらつまらないし、その時分は女子は中学校卒業しても自立しなくてもいいということもあったので、男ばかりにした。 新聞の奈良版や大和タイムスによく載った。各学校からも研究授業に来ていただいたて注目されていた。なかなか中学校ではできなかった。小学校から上にあがってくるのはできるが中学校独自でやるのはできなかった。俺にまかせろというのが特殊学級がうまくいった一つの理由だ。心理学専攻してきた先生は子供一人ひとりの心理的なことをつかんで教育するが、私の場合は目標がちがってなんとか世の中に出て自立的にくっていける人間をつくりたいという目的があった。少々字が書けなくても自活できる人間をつくる。
?先生の経歴について  大阪の工業大学の土木科の卒業で、昭和23年吉野高校の土木科の教師をしていたが、昭和24年に新制中学校の30代以下の若い先生がたりなくておりてくれということで吉野中学校にはいった。昭和26年吉野中と上市中が合併した。吉野上市中学校になり吉上中と言った。昭和38年ごろ吉上中と中庄中、龍門中、国栖中、中龍門中が合併して現在の吉野中学校になった。27年間いた。
?教育内容について  教育内容については、吉野の杉、桧を使って箸の生産をしていた。箸を生産したものを市場に出した。自分の作ったものが市場価値のあるものをつくった。手でつくた。時間割は、午前中は学習で、国語、数学、そろばんを主体にして学習させた。音楽や図工は専門の先生に特殊学級にきてもらっていた。午後からは、生産で、体力づくりや生産学習を重点に置いた。何事も最初につくるのは難しい。失敗した時にはみじめになる。3年したら15人出ていくからだんだん生徒数が少なくなっていく。親に対する啓蒙が大事である。私の目標は体力づくりでソフトボールでも2チームつくれる学級にしたかった。2〜3人ではできない。父兄に対する啓蒙が大切である。私の場合は先生ではなく銀行の勧誘の人ではないかといわれたこともあるほどだ。子供さえ集まれば先生がなりたつ。15人いても家が広かったので泊めることができた。親が協力してくれたのでうまくいった。6時間の授業させて帰らせるだけなら簡単だが、24時間の教育が必要。それらの点が難しい。IQ50以下の者は施設で。50以下の生徒を対象にすると50〜80ぐらいの対象の生徒が入らず、学校教育の特殊学級の生徒を集めるのが困難になる。きらいなものをおしつけるのはよくない。体力的に自信のあるものは、体力を活かす。教育の大事さがここにある。長所を活かすのがほんとうの教育である。なんとかしてあげんなんあかんという気持ちが一番大事である。熱意があるのとないのでは違ってくる。それが一番の教育である。それが根本であってそれをどれだけやっていくかが大事である。それを自分でどれだけ社会のためにつくしていくかが大事である。24時間教育しないといけないこともある。6〜8時間で終わるようなことだったら、電車の軌道を走っているのと同じだ。最後に、200年前に建ったという由緒ある家の前で記念写真をとらせてもらった。坂口先生は昭和4年生まれで、大淀中学校を最後に退職され、現在は林業に忙しい毎日を送っておられる。

(7)昭和32年橿原市立光陽中学校の未認可の特殊学級について
   吉田善次郎先生訪問聞き取り調査より

 中学校の特殊学級が1校しかなかった中で、橿原市立光陽中学校では市費で講師を採用して未認可で特殊学級を経営していたという記述68)をもとに、当時の担任 であった吉田善次郎69)氏を訪問してお話をうかがった。  以下はその全文である70)
 奈良県教育委員会の研究論文に出した自筆の原稿を保存されていた。 1年間は普通学級をもっていて中谷成彦先生(4・5年前から未認可であったが熱心に取り組んでおられ奈良県の中学校最初の担任)が特殊学級を持っておられたが転勤されたので、その後を引き継いで自分から担任をやらせてもらった。「サウンドプレー」音響遊びでトツートンツーという感覚訓練を魯鈍級の生徒8人を対象に治療教育を実践した。中学校の特殊学級の草分けで、市も認めてくれ講師を1名入れてくれた。研究授業にもたくさん見に来られた。遅れの子はどもりがよく出るので、その矯正法を考案して発表した。どもりの子の舌のまわり方のやり方を研究授業に来た先生方みんなが写してかえった。特に吃りの矯正法はたしかに治っ た。当時理解してくれたのは校長ぐらいだった。立命館大学の末川総長71)からも家まで来てくれもっとやれと言ってくれた。専門教科は社会だったが、昔電信をしていたのでそれを応用した。電信では12才〜20才までの子を教えたが、年が上がるほど技術が落ちる。12才で1分に120字ぐらいたたくが、20才では1分に70字ぐらいしかたたけない。若いほうが良い。脳は20才でかたまる。12才ならまだ発達する。碁や将棋にも共通する点がある。治療教育として魯鈍級の人があそびによって発展するように音響治療を試みた。個人教育で治療した。奈良教育大学の柳川先生が知っていてくれる。光陽中学校では8人(男子3人女子5人)の子供たちを特殊学級でとりくんだ。吉田学級と呼んだ。親も喜んで入ってくれた。子供達もまじめにとりくみ、サウンドプレーをしようというと喜んで入ってくれた。市の教育長が理解してくれた。教育長から研究論文を出せと言ってくれた。末川先生も協力するから論文を出せと言ってくれた。組合の全国教研が大阪であった時発表した。 発表の時間もたくさんくれ、終わってからも宿舎に広島や秋田県の先生があ詰めかけてきた。手のひらの裏と表は赤ちゃんのときは同じ厚さだが使うから厚くなるし、すもうとりが力が強いのは身体を使うからである。刺激があれば発達するという考えにたって頭の中を刺激した。昭和26年から27年ごろ片塩中学校にいた時に大阪府の施設見学をしたが、校長が私に質問するように言ったので「グルタミン酸が知能指数を上げるという研究をされていますか?」と質問して驚かせた。(当時、吉田先生はグルタミン酸の効果について研究されていた。)「確かな効果がでていない。なかなか飲ませにくい。」とのことであった。教育長が力をいれてくれた。私の論文は市の人には1回読んだぐらいではわからなかった。当時の研究からはかけ離れていた。経歴についてははじめ国鉄にいた。大阪鉄道局で後に内閣総理大臣になられた佐藤栄作氏の秘書をしていた。小学校は真菅小学校卒で大学は立命館大学の法学部を卒業した。小学校の特殊学級を見学したことがあるが、もりをして機嫌良く遊んでいるだけで治療にはなってなかった。私の場合は1・2・3・4・・10までならべるところからした。治療として女の子に個人指導して効果があった。小学校からはじめるべきだ。この治療教育も瘢痕性のものには難しい。小さい時やけどをした子や高い所から落ちた子などは音響効果がない。脳が固まってしまうといけない。鍛えることによって発達するという観点は当時としては飛躍しすぎていた。気長にやらないといけなかった。バスケットボールでもはじめは失敗ばかりだったのがだんだん良くなってきたら頭もよくなってくる。一芸は万芸に通じる。上手とは手で書かず頭で書く知覚神経だから上頭と書くべきだ。特別学級で分かってくると、自分の名前もあまりうまく書けなかった子がうまく書くようになる。怒るよりも褒めることが一番だ。小さいときからやるべきである。市の教育長が変り校長が変り吉田学級の生徒が卒業して出て行き私が定年になり生徒、父兄とのつらい別れとなった。55才で定年だったが講師として続けて欲しいとも言われたが退職した。吉田善次郎先生は退職後大阪の高校から短大で教鞭をとられたあと、87才の現在も少し耳が遠い以外すこぶる健康で喜んで話していただいた。大切に保管されていた当時の研究論文をコピーさせていただいた。

(8)奈良県教育委員会による特殊児童調査について 昭和31年

 一方、教育行政はどのような動きをしていたのであろうか。昭和31年に奈良県教育委員会による調査がおこなわれた。その調査結果について『のびゆく教育』No.57に「特殊教育の諸問題−特殊児童調査を分析して−」72)と題した調査レポートを県教育委員会総務室主事堀口喬三氏が発表しているのをみてみたい。
 特殊教育を振興しその諸対策をたてるためには先ずその対象となる児童生徒を正 確に判別し、その実態を把握することが何より大切である。特殊児童生徒といってもその範囲は広く、盲、弱視、ろう、難聴児、精神薄弱児、肢体不自由児、言語障害児、性格異常児、身体虚弱児、といったものを総合した立場から判別するを要しむつかしい問題が残っている。 むずかしい判別と実態把握 文部省においては、昭和28年6月、「教育上特別な取扱いを要する児童生徒の判別基準」を作成し、各都道府県教育委員会に通達した。しかしこれも弱視、難聴児に対する身体検査の方法−聴力検査器は本県に2台しかない。−知能テストの実施方法、境界線児の取扱い、身体虚弱児、肢体不自由児、の医学的判別について問題は残されている。次 にこれら児童生徒の実態把握には更に困難がともなう。即ち「血統にかゝわる」とか「世間態が悪い」とかいった間違った社会通念、特殊教育に対する無理解からくる問題である。・・略・・具体的にいえば、就学児童生徒については一応判別実態把握の方法はあるが、長期欠席者、不就学者については、その実態がなかなか把握出来ないということである。−裏からいえばそれだけ完備した特殊児童対策が行われていないということになる。− 全国では140万の特殊児童生徒・・・略・・本県では8066人 県教育委員会は、特殊教育振興の基礎的データーを集めるため、昭和31年5月1日現在で県下公立小、中学校を対象に調査を実施した。調査の判別基準としては、さきの文部省通達によった。これによると小学校普通学級、又は特殊学級に就学している特殊児童生徒は在籍児童総数の5%4354人中学校は7%3254人である。(別表参照)更に各学校毎にそのパーセントをひろってみると相当開きがあり、各校の判別には基準の差異が認められ、全国推定と比較すると更に実数はふえるのではないかと思われる。又、この調査は長期欠席者中の特殊児童生徒は含めているが、不就学児童生徒中の特殊児童生徒は含まれていない。県教育委員会では、これらを併せ調査するため同日付で県下各地 教委宛、不就学児童生徒調査を実施した。これによると就学免除及び就学猶予になっている特殊児童生徒228名、次に文字通りの不就学児童生徒中の特殊児童生徒44名併せて272名がいる。(別表参照)しかし、この調査も学令簿の整理状況、及び該当児の把握には問題があり、実数は更に上回るものと推定される。以上二つの調査及び盲が42名、ろう学校171名の小、中学部在籍児童生徒を加えると、本県においては学令児童生徒中、実に8066名の特殊児童生徒がいる。73)
 ここで重要なのは教育委員会が当時の障害をもつ児童生徒の実態を初めて全県的に把握したということである。それは、県下の公立小、中学校のすべてを対象に実施され長期欠席者にまで及んでいる。そして、各地教委にも就学免除、就学猶予もふくめた不就学児の実態調査にまで及んでいる。この調査で県下の障害児の数を8066名という数をあげているが、この数の中には、いわゆる境界線児等が含まれているためだと思われる。当時の障害児学級が昭和31年現在で小学校7学級76名、中学校1学級14名で合計90名しかなかったことを考えると、この数字がいかに大きかったかうかがわれる。そして、いかに、施策が遅れていたかということを教育行政自らが明らかにした調査であった。この調査を基に全国的な障害児学級の計画設置の流れの中で奈良県においても昭和36年に特殊教育振興5ヶ年計画が発表される。しかし、学級増設までには、研究会や組合による請願等の要求運動があった。

(9)奈良県教職員組合の全国教研レポート調査より

 奈良県の障害児教育の歴史の中で全国的な動きを奈良県にもたらしたものとして、組合の教研集会が大きな働きを果たしている。奈良県教職員組合の教育会館の地下の書庫にそのレポートが保存されている。その中から障害児教育の分科会のレポートを調査した。それを通して、違った視点から奈良県の障害児学級の歴史を見てみたい。教育会館に残っている奈良県のレポートで一番古い資料は、昭和32年の第7次全国教育研究集会の「わすれられた子供達をどう指導しているか」と題した高田市立陵西小学校の障害児学級担任の西本幸孝氏のレポートである。そこには、奈良県での教研集会の6人のレポート発表と討議をまとめて報告書を作成したと記されている。
◯特殊児童の人間関係と問題児の原因について 磯城郡 都小学校 広井幸代
◯三つ児の問題行動について 桜井市 大福小学校 森岡彦雅
◯性格異常児の生活指導を如何にすべきか 橿原市 鴨公小学校 島田敏久
◯特殊学級の職業指導について 吉野町 吉野中学校 阪口京一
◯特殊研究グループ(私たちの歩み) 内吉野 五条小学校 井上信郎  (内吉野教組特殊教育グループ)
◯特殊児童に於ける算数指導の問題点 高田市立陵西小学校 西本幸孝
奈良教育大学助教授の上田敏見先生を中心に12名の教師が参加したとある。 この中で、特徴的な点は、普通学級における特殊児童について3つの報告されており、この分科会自身も障害児教育として独立していなかったこともあると思われるが、論議の中心が普通学級の中でどのように指導するかということに重点が置かれている。しかし、一方では、奈良県最初の中学校の障害児学級である吉野中学の阪口京一氏が報告されている点と当時内吉野の組合を中心とした特殊教育の研究グループが存在していた点が注目される。また、昭和27年に奈良県で2番目に特殊学級を開設したた高田市の陵西小学校の西本幸孝氏が算数の教科内容のについて報告されている点も注目すべき点である。西本氏は後の昭和38年に奈良教育大学の附属小学校の障害児学級の最初の担任になり、国立での障害児教育の開拓者でもあ る。第8次教研には、前述した市費で特殊学級を経営していた橿原市立光陽中学校の吉田善次郎氏が「サウドプレーによる治療教育」と題したレポートを発表しておられる。第9次教研についてはレポートが発見できなかった。第10次教研では「普通学級に於ける特殊児童の指導を進めるために」と題して五条市南宇智小学校の表野秀一氏が発表しておられる。このレポートの題でもわかるように、なかなか障害児学級の増設が進んでいないことをうかがわれる。この中で◯現状から脱すのはどうすればよいか?◯特殊教育を阻んでいるのは何か?等が話し合われた結果、阻んでいる原因として次の4点があげられている74)。 1.行政当局の無理解。 2.地域社会(一般父兄を含めて)の関心と理解がない。3.特殊学級において小・中学校間の関連性がない。4.教師の認識の不足。この県の教研集会を出発点として特殊教育の研究サークル活動が始まったことも、注目すべき点である。「普通学級に於ける特殊児童の指導について・特殊学級に於けるその経営と問題点の解明等という研究問題を深めて追求しようとするこの小さな集いが一般父兄とともに教師(仲間)への啓蒙活動の原動力となる事を願ってやまない。新しく出されようとしている指導要領をいかに受け止めるるかという特殊児童に対する教育課程の研究という重要な研究課題に向かって前進するささやかなサークルの前途に幸あれと心から叫びたい。75)」そしてこのサークル活動が後の全国障害者問題研究会奈良支部の結成へとつながるのである。第11次教研では「奈良県特殊教育の現状」と題して吉野中学校の井須秀夫氏が発表されている。この報告書は当時の奈良県の障害児教育の一つの到達点を全国的な視野から明らかにしたという点で非常に重要なレポートである。この報告書は県の教研集会で当時近江学園・京都大学特殊教育講座教授田中昌人氏を指導者としてむかえ活発に討議された内容をまとめたものである。この中で、注目すべき点は特殊学級担任教師としての姿勢として(イ)自分のカラにこもりすぎないか。(ロ)親との密接な連絡がとれているか。ということが指摘され、教師だけの力に頼らないで世論の関心を深めるために、まず「手をつなぐ親の会」を結成して、教師と父兄が一体となり縦横の連絡を綿密にして特殊教育を推進していく等の方策が立てられたことである。このように吉野を中心とする組合の教研活動の中から民主的な障害児教育運動が展開されていく基礎が育まれてい ったのである。なお、全国教研の奈良県のレポートの一覧表を資料として巻末に掲載した。


第3節 計画設置による学級増設
    特殊学級から障害児学級へ(昭和36年〜45年)

(1)基礎文献「障害児教育百年奈良県記念誌」より

 ようやく、学級に対する啓蒙が進みかけたと同時に学級設置の必要性の痛感から、県は昭和37年より5ヶ年にわたって『特殊学級増設5ヶ年計画』を樹立、学級の増設にとりかかることになた。昭和37年は、その1年次として小学校で6学級、中学校で4学級の増設が実現した。前年の(甲案)につづいてカリキュラム作成に努力し38年3月には「特殊学級指導の手引き(丙案)」を発刊した。昭和38年には小学校で8校8学級と2校の学級が増設がみられ、中学校でも2校2学級の新設をみて小学校で21校26学級、中学校で8校9学級となった。76)

(2)計画設置による県教育委員会の振興策について

 昭和36年に奈良県特殊教育振興5ヶ年計画が発表されるが、その行政の資料を探したが発見できなかった。そのかわり、計画設置が始まった2年後の昭和39年の『のびゆく教育』3月号に「特殊教育の現況と振興策」と題して県教育委員会学務課が計画設置の中間発表をしている文献を奈良女子大学の図書館で見つけることができた。その文献によって具体的な計画の内容をみてみたい。 その4、特殊学級の現状と充実計画の中から引用する。  学校教育法第75条には精神薄弱者、肢体不自由者、身体虚弱者、弱視者、難聴者、その他心身に故障のある者で、特殊学級において教育を行うことが適当と認められる者のために公立学校に特殊学級を設けることができると規定されている。奈良県においては昭和26年度片塩、鼓阪両小学校に精薄特殊学級が開設されてより比較的増設の歩みおそく、全国の下位を低迷していたが、文部省の増設計画の推進もあり、本県の増設5ヶ年計画が軌道にのるにしたがいおいおい充実への途をあゆんでいる。しかし全国的な充実の中にあってはいまだ下位を脱却するまでにいたらない。 ○特殊学級に関する文部省の振興方策と奈良県の場合 1.市町村に対しその人口規模に応じて次の設置基準により、精神薄弱特殊学級を小学校および中学校に設置することを奨励し、将来その設置を義務づける。 (1)市およびい人口3万人以上の町に対しては44年度を目標に設置を義務づけることにし、43年までに設置基準に達するよう助成する。 (2)人口3万人未満の町村に対しては49年度を目途に設置を義務づけることにし、48年度までに基準に達するよう助成する。  これにもとづき本県の現況をみれば下のようになり、現在進行中の増設5ヶ年計画は当然新しい10ヶ年計画へと移行されるべきものと思われる。ちなみに近府県における状況次表のとおりで本県はきわめて低い位置にある。これは47市町村のうち人口1万人以下が25町村もあり、しかも広汎なへき地と数多くの小規模校を 抱えている特殊性の故であり、ここに本県のむつかしさが考えられる。いずれにせ よこの計画が完成すれば、県下いずれの地においても精薄の子供たちが特殊学級未 設置のため、止むなく普通学級に混入されたままかけがえのない学令期を過ごさざるを得ないという現状はなくなる筈である。もちろん完成時における予想就学率30数%ということから考えれば、これで十分ということは云えないまでも、6.4%の現状からみれば、飛躍的な充実であり、機会均等の法の理念にむかっての大きな前進である。とかく忘れられがちであった特殊教育が、国の振興方策と相まって大きく動き出そうとしていることは喜ばしいことである。ただこれが便宜的に処理さ れることなく、憲法や教育基本法の理念を文字どおり実現させるための努力を県教委はもちろん関係各方面にも望まれる。それとともに県民の一人一人が、特殊教育の果たしている役割を知り、暖かい励ましと理解がほしいものである。77)

 ここに記されているように、計画設置1年目の昭和37年度の現状は、障害児学級設置数20学級(小学校15学級中学校5学級)で目標の162学級の12%と近畿では最下位であった。二年目で35学級(小学校26学級中学校9学級)で、ちなみに、第1次目標とされた昭和43年には115学級とまだ達成されず、最終目標とされた昭和48年になってようやく166学級となって達成している。

 このように、障害児学級の設置が計画どおり順調にすすんだ一方でなかなか進まなかったのは養護学校の建設であった。同じく国の特殊教育振興の方策の中で目標とされた肢体不自由児養護学校の開設は文部省は昭和38年に奈良県に建設する計画であったのにもかかわらず、実際に開校されたのは昭和41年であった。これには、当時「厚生省の年次計画で最終年に追いつめられていた精神薄弱児施設の開設を優先せざるをえなかった78)」という事情があった。又、「当時の人口急増と高校進学率の上昇期にあり、高校生の受け入れ対策を優先させざるをえない79)」という事情もあった。(「奈良の障害児教育白書」3頁より)精神薄弱養護学校の開設(昭和46年)までにはもう少し時間がかかった。その間、障害児学級の数が増える一方で重度の子供たちが就学猶予・免除となる数が増えるという矛盾を産んだのは皮肉な結果であった。

(3)県立精神薄弱児施設登美学園の開設 昭和38年

 ここでもう一つこの時期で重要と思われるのは、精神薄弱児施設奈良県立登美学園の開設である。奈良県で唯一の民間の精神薄弱児施設としては昭和24年から成美学寮があったが、県立の施設は昭和38年にやっと開設したのである。この年に施設内学級として富雄南小学校と富雄中学校の障害児学級が2学級ずつ設置されている。開設当初は施設に収容することだけでその子たちの教育については県婦人児童課と県教委、市教委のどこが責任をもつかが明確になっていなかった。そのため福祉と教育のタテ割り行政の谷間に置き去りにされるということが後のちまで続いた。当初は中軽度の子どもたちの大和寮のみであったが、学級は4教室のみで学校用のトイレもなく、いすや机や教科書など他の学校にもらいに行ったという開設当初の話がある。このような福祉と教育の谷間の中という不十分な教育条件のにもかかわらず施設内の障害の軽い子どもたちの教育保障が展開されていくのである。  後に昭和40年に重度棟が開設してこの子たちの教育権保障が問題になっていく。重度棟に入るためには「就学義務が猶予または免除されたものであること」が条件とされたため、学校教育の対象外とされてしまった。学籍がないという理由で 同じ施設内にある施設内学級にもいくことができなかったのである。しかし、「登美学園の重度棟におけるとりくみは、奈良県下では障害の重い子どもを対象とする最初の施設であることと、学校ではなく施設であったにもかかわらず保母集団を中心に子どもたちの発達を保障しようと実践にとりくんだことなど、奈良県の障害の重い子どもの教育権保障の運動にとって大きな意義をもつはじめてのとりくみであった。80)」(奈良県障害児教育運動史研究(3)障害の重いこどもの教育保障より)

(4)教育課程と教育内容について奈良県特殊教育研究会を中心に

 この時期の特徴は、計画設置によって学級が飛躍的に増えた時期であると同時に新しい担任に対する指針となる障害児学級の教育課程や教育内容が作られていく時期でもある。その様子を片塩中学校の障害児学級担任であった中村隆宣氏の奈良県障害児教育研究会の歴史についての聞き取り調査より引用する81)

 1)中学校の障害児学級の実態
 特殊学級設置5ケ年計画によって昭和38年に片塩中学校に学級が設置される。それまでは、片塩小学校に残って実験学級の中学生というので実中の子といわれ大事にされていたが、親から中学生やのに何で中学校にいかれないのかと運動になった。教育長の中西先生がそらそやなということになり片塩中学校に学級がつくられたということだった。昭和38年中学校には7校しか学級がなく、T中学校で研究会をもったとき、地下で汗臭いにおいに加えて水の流れてくるような野球部の部室を学級にしていたので研究会をやめて校長に談判しに行ったこともあったとのことであった。校長は「ちゃんとするはよう」と約束したというエピソードがある。それが当時の障害児学級の実態であった。当時、生駒南中学校の野尻先生(後十津川高校校長)がナスビやキュウリ等の農作業をさせたり、川にじゃことりしにいっていた。こどもをつれてとれたやさいを近くの団地に売りにいったら「障害児学級の先生は給料では生活できないので自分のこどもをつれて野菜売りにきてはるねんなあたいへんやな」といわれたという笑い話しを野尻先生に聞かされたともおっしゃっていた。片塩中学校の中村先生は昭和39年から活版印刷をはじめられた。吉野中学校では焼杉に仏面をのせたり、縄ないもしていた。全国的には学校工場方式がやられていたが、奈良県は生産単元学習という考え方をうちだした。

 2)小学校は生活単元学習、中学校は作業単元学習
 昭和38年に特殊学級教育課程を作成した。甲案と乙案があった。小学校は生活単元学習、中学校は作業単元学習を中心とした。昭和47年ごろになて形になったが、考え方は昭和37〜38年ごろからあった。基本的生活習慣の育成、集団生活への参加、社会参加などの項目を軸に生産単元として四月は種植え・・・十一月には勤労の喜び・・二月職場実習、三月職業への参加などの目標を設け、社会参加と職能の対角線を引いてこれが大きくならないといけない。中村先生の学級でもこれに基づいて、年賀状などを刷った売り上げや棚卸しなど収入支出の会計をしたり、売れたお金で調理実習をしたり、奈良や大阪へ中華料理を食べに行こうと電車賃や切符を買う学習をしたりしていた。昭和39年の六月ごろ文部省より三木安正氏が奈良県の視察に来た。郡山中学校、片塩小学校、片塩中学校等を視察して「奈良県もけっして劣ってない。よくやっている。」と言われた。

 3)県指導主事専任制とブロック制担任者会
 昭和39年にやっと県の指導主事が専任制になった。布施実氏、神谷氏、西村幸治氏、中村芳郎(盲学校校長)氏等が、つぎつぎと担当。このころ、学級数が増えてきたので、ブロック制担任者会をするようになった。小学校を4ブロック、中学校を3ブロックに分けた。

 4)特殊教育の振興、研究指定校
 昭和40年、県・地教委・研究会による研究指定校に初瀬小学校(千賀庄之信校長)が当たり「特殊教育に対する意識をどう高めるか」をテーマに昭和41年に矢追敬子先生(現在の奈良教育大附属中学校)が発表した。大変だったが、普通学級の先生も見にきてもらい障害児教育に対する認識を新たにするきっかけになった。昭和41年初めての県立養護学校(明日香養護、肢体不自由)が開設。このころ、研究会では指導要録作成について論議がされた。校長が作成することになっていたがバラバラでなく全県で一つになるように特殊学級用の指導要録作成委員会をつくった。学級担任の名人芸でするのはおかしい、理論に基づいて誰がやっても出来るように、指導の過程を残さないといけないので盛んに論議した。また、特殊学級の教育について教頭の研修会をするようになった。普通学級をもたせられないから特殊学級をもたせているというようなことを言わないよう。

 5)近特連奈良大会 昭和44年
 近畿の6府県と3政令指定都市の9つがもちまわりで第1回から8年目に奈良にまわってくることになった。全県で43人ぐらいではできない。お金もいるしなんとかしないといけなくなったが、昭和44年10月25日生駒小学校で開催し盛大に終わる。この年から地区を中学校も南和を2つに分けて8ブロックになった。また、専門委員会を5つ作った。文部省の教科等の研究会に入ると補助金が出るというので小学校の特殊教育部門に中学校も一緒にはいっていた。指導主事も一生懸命してくれたので入り込めた。全県の担任者会ももつようになり、昭和44年未設置校に対する啓蒙もはじまった。

(5)奈良教育大学附属小学校と中学校の障害児学級の開設  昭和38年40年

 この時期のもう一つの重要な点は、国立大学の附属小学校と中学校に障害児学級が開設されたことである。附属小学校には昭和38年に中学校は昭和40年に学級が開設されている。そして、昭和41年には奈良教育大学養護学校教員養成課程が開設し、この課程の卒業生が後の奈良県の障害児教育とくに養護学校の教育の発展をになっていく中心になって行くのである。奈良教育大学附属小学校・中学校の障害児学級については、「奈良県障害児教育運動史(2)奈良教育大学附属小学校・中学校の教育研究」奈良教育大学教育研究所紀要15号1979年にくわしくのっている。奈良県の障害児学級の歴史の中で教育大学附属小学校・中学校の障害児学級は教員養成とかかわってより専門的科学的な障害児教育の創造と実践を押し進める中心的存在として重要な位置をしめている。また、次の全障研奈良支部の中心ともなっていった。

(6)全国障害者問題研究会奈良支部の結成 昭和43年

 また、この時期の中で重要と思われる事に全国障害者問題研究会奈良支部の結成がある。昭和35年の県教研集会の中からうまれた「特殊教育研究サークル」が奈良教育大学の柳川光章教授を中心に「特殊教育研究グループ」に発展する。それが昭和40年ごろ「障害児教育研究グループ」に改称される。全国教研での全国的教育サークル結成の提唱により全国障害者問題研究会の結成をうけて奈良県でもこの「障害児教育研究グループ」のメンバーと奈良教育大附属中学校の藤森善正氏らを中心に昭和43年に全国障害者問題研究会奈良支部が結成された。この全障研奈良支部の活動が権利としての障害児教育と発達保障運動の中心となっていくのである。この詳しい経過については「全障研奈良支部20年の歩み」1987年に載っている。


第4節 養護学校の開設 重度の子供たちの教育保障
     と養護学校義務化まで(昭和46年〜55年) 

(1)県立西の京養護学校(精薄)の開校 昭和46年

 奈良県最初の精神薄弱養護学校である西の京養護学校の開設は昭和46年であるが、開校までには、様々な団体の要求運動があった。昭和41年の奈良県手をつなぐ親の第3回総会で精神薄弱養護学校の新設の決議がされている。昭和42年の奈教組障害児教育部の県教委交渉でも要求項目として上がっていた。また、昭和44年に全障研奈良支部も「西の京養護学校新設についての要求懇談会82)」をひらいて障害の重い子どもの教育保障にとりくむ学校としてその内容を充実させる運動をすすめていった。西の京養護学校の開校はそれまで就学猶予免除で在宅をよぎなくされていた障害の重い子どもたちの教育を保障するうえで奈良県の障害児教育の大きな役割を担っていった。

(2)県立登美学園の重度の子供たちの学籍復権運動

 昭和48年重度棟の子どもたちの教育がはじまった。その最初の担任であった浦川敏恵先生の当時の文からすこし長くなるがそこにいたるまでの当時の様子を知るために引用してみたい83)。  
1)学籍復権運動 すぎの子学級開設
 “すべての子どもたちに教育の保障を”という全国的な運動の高まりのなかで、 “登美学園の重度棟の子どもたちにも教育の保障を”の取り組みがかなり以前から保母さんや指導員さんたちのなかで取り組まれ、子どもたちも「ボクも学校行きたい」との声もあがっておりました。当時学校側に対して、「教育を受けていない子どもがたくさんいるのをどう思うか」と質問が出され、生徒も多く卒業したこの機会に何とかせねばと思いながら何もしていなかった4月末、本校より「重度棟の子どもたちの教育をすすめるように」と連絡がありました。当時3名いた教員の1名がその仕事にあたることになり、生徒は年長の太平寮から中学生に該当する者を選出せよとのことです。16名中5名を選出、選出されなかった者から「僕はどうなってるの?」「僕も学校へいくんやろ」、寮の職員からは「介助にあたるので、できるだけ多くのこどもたちを教育してほしい」と言われます。けれど教室は16?の裁縫室、そこへ食堂で使っていた机と長椅子を入れてもらっただけのものです。そこで5名の他にどうしても学校に行きたいと意志表示した4名を含めた9名で、昭和48年6月29日に“すぎの子学級”が開級。土足のまま“ドタドタ”と教室に上がりこむなり狭い教室で、“ゴロリ”と横になってねそべる子、靴を脱ごうともせずうずくまっている子、まったく目の合わない子、友だちや私たちの腕にかぶりつく子、「キイキイ」「ワーンワーン」、そのなかで男の子が一人いないことに気がつき走り回って探す、ブロック塀の上に器用に横になっていてびっくり、とこんな日々が続き、重度棟の子どもの教育ってこんなものなのかと思いながら、汗だくの毎日で1学期がおわりました。こんなことでいいのか、施設、設備のこと、それに学校へきていない子どもたちをどうすればいいのかと多くの問題を持って学園の先生と3日間、奈良県下の山道600キロを家庭訪問にでました。毎日学校へきている保護者からは「学校の先生がきて勉強を教えてくれはるのは誠に結構なことやと思います。けど先生、うちの子はしゃべることもできへんし字もかけませんね、先生はこんなうちの子に何をおしえてあげてくれはるのですか」「教室もない学級なんてみたことがありません、教室には本とかいろいろなものが置いてあるのにここには何もない、なぜですか」の質問。教育内容や学籍のないことなどいろいろ出されました。また、学校へきていない子どもの家々からは「重度棟の子どもはみんな就学猶予や免除をしているのに自分とこの子どもだけ何故学校に行けないのですか」「重度棟の親みんなが学校に行けるように要求してきたのですよ」等厳しい言葉を受けて帰ってきました。障害の重い子どもたちへの教育はどうあればいいのか、今の現状で何を大切にしていけばいいのかと教研集会、母親大会、全障研の学習会等で意見を聞かせてもらいました。そして、重度棟の保母さんや指導員さん、それに教組の人、教育大の先生や学生さんたちで、登美学園内にいる障害の重い子どもたちだけでなく地域にいる障害の重い子どもたちを含めて“障害の重い子どもの教育をすすめる会”をつくり、そこでこの子どもたちのことを考えていこうと準備会ができました。1学期の反省から、学校へいく子と行かない子のみぞをつくらなように、すべての子どもを教育の対象とし、朝の会、終りの会だけは毎日一緒に又一週間に2回だけは全員で学習に取り組むことになりました。寮からは1〜4名が介助にあったてくれました。全員で学習に取り組む日など大変で全員教室にはいっても何もできず、ほとんど近くの野山を歩いていろんなところを見学したり教室外で学習をしておりました。学園内での運動会も今までの中軽度棟の子どもたちを中心にしていたものから重度棟の子どもたちに中心がおかれるようになり、子どもたちは大変はりきってみんなと一緒に行進したり走ったりしました。綱引きは危険だからと外へ出るように指示された先生方に泣いて抗議する子。「みんな同じ仲間なんだ」と叫んでいるかのようでした。反面、教師の方にも保母さんと同じような病気が出はじめ“けい腕症”の診断が出され、教師の中で今後の方向が話し合われ、中軽度棟の子どもたちの中にも手の離せない子どももいる、それに施設・設備の不備から教師の努力では解決できない問題が出され、市教委交渉を持つことになりました。市教委は重度棟の子どもの教育については「そんなにたくさんの子どもを教えるから無理がくるのは当然だ」と言わんばかりです。市教委は重度棟の子どもたちの教育を本当に考えているのだろうか。世論の声におされ、適当にお茶をにごしておけばと考えているのではないかと疑いたくなり、また、まして登美学級のすべての子どもたちの教育条件については「市教委だけでは解決できない。婦人児童課や県教委に働きかけなければならない。」というだけで、がっかりしてしまいました。でも日頃目の前の子どもをどうするかばかりに気をとられていた私たちが、障害児教育とは、重度棟の子どもの教育とは、施設・設備はどうあればいいのかをもっともっと考えていかねばと教師間で確認できた点大きな前進だったと思います。3学期に入り、新聞紙を利用した“玉のれん”作りも、新聞紙をちぎることは大変むずかしく、細かくちぎれる子どもは当時17名中2名でしたが、すり鉢に新聞紙と水を入れ「ぺったん」「ぺったん」とすりこぎでつついたり、ねんどを丸めておだんごを作ったり、めいめい自分なりに取り組める子どもが増えてきました。一方、保護者のほうも行政に向けて学籍復権の取り組みが活発になり、市教委は「子どもたちは小学校を卒業していないので中学校へ入れる訳にはいかん、又、義務教育の年令を超過している子どもを学校に入れなければならない理由もない」との返事。そう言われてみれば無理もないという空気がただよい、暗い気持ちの日々を過ごしました。重度棟の教育は、施設・設備もほとんどなく、予算1万円でスタートしました。ないないずくしの中でも、学園の先生方の後おしのおかげでなんとかもっているものの、来年こそはもっと教育行政が責任をもった重度棟の教育を考えてもらわねばと市教委に訴え、又、本校にも一年のまとめと来年度の方向を出し、年度末を迎えました。
 2)すぎの子学級2年目 学籍復権実現
 昭和49年度の4月、念願の教員増がなり、予算も2学級分40万円が支給され、重度棟の年長児18名(男子14名、女子4名)を担当することになりました。できるだけ多くの子どもたちを学校で教育できるように学園から介助をお願いしました。
 学級集団  18名を等質の2つに分ける 
 学習集団  ?発達段階別グループ イ.13名  ロ.5名
          13名は主に学校で 5名は寮で主に生活指導を
         ?等質の学級別
         ?全員での合同学習
         ?発達段階別のイのグループと中軽度棟学級との交流学習

 以上の体制で、すぎの子二年目を出発しました。教師は一名増があったけれど、教室は16?の裁縫室、18名の子どもたちが椅子にすわるともういっぱい。それに介助の先生方2〜3名入ると身動きが取れず、子どもたちが発作を起しても横に寝かせる場所もない始末。発作で倒れそうになる子どもに気づき、机を乗り越えて助けたり、窓の外から支えたりする事が何回もありました。子どもや保護者、学園の先生方や私達にみんなのせっぱつまった「教室を作ってほしい」という願いが三者協定(県、県教委、市教委)で話し合われ、夏休み中にプレハブの教室(3間×6間、真ん中にアコーデオンカーテンを作った二教室)を作ると園側より連絡。又、保護者の学籍復権の運動も高まり、夏休み前には市教委から「すべての子どもに学籍復権の用意がある。学齢時をすぎた子には就学願いを、学齢時にある子は就学猶予・免除の解除願いを提出せよ。」との連絡があり、そのことの連絡や準備に夜中までかかって奈良県下を家庭訪問しました。みんなの願いが実現した。もう何年来の願いだろ。小学校に入学する時からぶつかっていた難問で、長い人では18年間もの願いになるだろうし、又、何回も就学猶予願をだしながらそのつど辛い思いをしてきたお父さんお母さんもおられることだろう。さあ、今度は教育の内容をどのように進めていくか、私達の出番ですと心に誓った。二学期にはいり、念願の教室に移転。今まで教室がないばかりにどうしょうもなかった問題、生徒全体が同じ条件で学校教育を受けるということが解決されたのです。・・・略・・・昭和50年1月に“すすめる会”の市教委交渉があり「10月29日に就学願いを提出したがいつ就学通知がおりるのか」に対して、「年令超過の問題があるのでもう少し研究期間をおいてほしい」の返事。1月31日、20才をすぎたA君が突然成人施設へ行ってしまいました。続いてBさんC君も。登美学園は児童の施設であるためその年齢をこえると成人施設へ移って行くより仕方ありませんが、今やっと長年にわたっての学籍復権運動が実り、今就学通知がおりようとしている矢先、まったく学校教育のない施設へ移っていく事がどうも納得いかず悩みました。終了式の日「昭和49年4月1日にさかのぼり、重度棟の子どもたち全員に中学一年生としての学籍を与える」の連絡がありました。そして「成人施設へ行った三人のことについては検討する期間をほしい」とのことでした。嬉しさよりも成人施設へ行った三人のことがどうしても気になる就学通知でした。全員で受けられたらどんなによかったか。障害が重いと就学猶予・免除された子どもたちに、教育は生存権なのだと全国的な叫びのなかで、この奈良県下でもこの子たちの教育を考えるようになり、施設入所と引きかえに教育権をうばいとられた子どもたちへの教育がはじまりました。「学校へ行っても子どもたち何もわからへん。ただ学校の先生が教えているだけやないか。」の声もありました。たしかに私たちが教えることによって「これとこれができるようになった」と言えるようなことはなにもりません。けれど、すべての子どもたちの教育を考える教育行政が自分たちの責任で子のこらの教育に取り組まねばならないと言うことを考えさせよう、「現実はこうしているのですよ」「この点を理解してください」と働きかけたことが大きかったです。その小さな灯が今では、どんなに障害の重い子でも命に別状ない限りそれぞれの機関で教育を受けることが当然のことのようになっております。そして、教育か福祉かの選択をせまられることなく、教育も福祉もそして医療もと大きく変っていきつつある今、私たちがはたした役割もやっとうかんでくるのではないだろうかと思います。  少し長い引用になったが、この登美学園内の施設内学級での就学猶予免除になっていた障害の重いこどもたちの教育はこのようにして、「教育は生存権なのだ」として教育を受ける権利はどんなに障害があっても保障されるべき権利であるということを明確にうちだし、多の教師や保母や父母とともにみんなの願として行政に要求運動して得た、まさしく切り開かれてきたものだったのである。施設に入るために教育を受ける権利を奪われていた多くの子どもたちにやっと学籍がついたのに義務教育を受けることなく成人施設に行ってしまった3名の子どもたちに対する思いはその時代を象徴する教師のなんとかしてやりたいという子どもたちに対する熱い思いとして大切にすべき思いである。この父母や教師の子どもへの熱い思いが昭和54年の養護学校義務化へとつながっていくのである。ここには学校教育の能力観に対する大きな変革がみられるのである。

(3)奈良県特殊教育研究会から奈良県障害児教育研究会へ
 奈良県障害児教育研究会のその後の動き中村隆宣氏の聞き取り調査より84)

 1)養護学校義務制にむかって  昭和47年から特殊教育の名称が論議を呼び、とやかくの論議はあるがともかく障害児教育ということに落ちついた。これは全国的にも早かった。少し遅れて大阪では養護教育となった。奈良県は進んでいた。昭和48年毎日新聞の後援で県下障害児の作品展を開く。いろいろな作品が集まった。厚生課の県の作品展に引き継がれる。昭和47〜48年に中学校の生産単元学習のあり方をまとめた。卒業生の追跡調査を実施し、これが後の高等養護学校につながった。昭和46年に西の京養護学校(精薄)、昭和49年に七条養護学校(病弱)。昭和50年大淀養護学校(精薄)が開校。昭和54年から養護学校義務化にむけて養護学校があいついで建設された。昭和47年済美小学校にことばの教室、昭和48年椿井小学校にきこえの教室開設。高等養護のことになり、昭和51年に石見の訓練校に分校ができた。これにはかなり運動をした。知事室で奥田知事に「それぐらいわかってるわ。」とおこられたが、早々に高等養護が出来た。北海道の白樺養護学校を参考にしてつくられた高等部だけの養護学校である。昭和50年に県の就学指導委員会が出来た。判別委員会と言った。昭和49年設置学校校長会もでき全国的にもよくやっている。昭和43年の近畿大会以後毎年全県障害児教育研究大会を開くようになった。第12回県大会のときから郡市別に研究活動するようになった。
2)全特連全国大会 昭和53年
 昭和53年全特連の全国大会を奈良で引き受けることになり、前々年の三重大会や前年の北海道大会に参加。はじめて奈良で開催した。その時まとめたのが『奈良県の障害児教育』。おおぜいの人が出てくれ発展の一つのステップになった。春日中学校の小西先生(現在の西の京養護学校校長)や富雄南小学校の吉川久夫先生、鶴舞小学校の矢倉先生(現在の登美ケ丘小学校、県障研事務局長)、田中文嗣先生(現在の県教委障害児教育担当指導主事)らが中心になり準備した。幼稚園から養護学校まで含めた他府県にはみられない広がりのある研究大会になった。ともすると養護学校や障害児学級だけに片寄りがちだが、奈良県は模範となった。幼稚園の江島たか子先生、五条の山田えい子先生や小中の障害児学級、養護学校の先生が一同に会えるのも研究会では県障研か同和教育研究会ぐらいである。奥田知事も力を入れてくれ、150万円出してくれた。はじめて2000人の大台を超えた。研究も進み40万円も本を買って研究し、後日、教育センターにあずけた。(現在の教育研究所にある。)

(4)義務制をめぐって 校区論と発達保障論

 昭和54年の養護学校義務制の実施をめぐって、養護学校は隔離であり差別であるとしてすべての障害児を校区の普通学校学級へという運動と、発達保障として多様な障害児教育の場を保障する発達保障論の立場の運動とが教育現場や全国教研等の場で激しい対立と論争が展開された。奈良県でも奈良県同和教育研究会などの同和教育の立場から校区論や原学級保障が展開されていく。一方、全障研を中心とする発達保障の立場から奈教組や障教組の運動とが様々なところで対立していた。校区論によって教育現場や教育行政にいろいろな混乱がもちこまれたが、行政に対する両方からの要求や交渉の中で教育委員会は障害児教育に対する政策をなおざりにできなくなっていく。養護学校の義務制はすべての障害児に教育を権利として保障していくという大きな前進であった。これ以後就学猶予免除者は激減していく。これによって養護学校も充実されていくのである。しかし、一方で、校区論と発達保障論の論争が義務制以後の障害児学級に変化をもたらしていく。そして、もう一方で文部省を中心とする養護学校との交流教育が展開されていくのである。


第5節 国際障害者年と国連障害者の10年    
    (昭和56年〜平成2年) 

(1)国際障害者年奈良推進協議会の活動とつながり祭について 

 「1981年は国際障害者年でした。続いて国連は、1983年から1992年までを『国連障害者の10年』と定めました。こうした国際的な障害者問題へのとりくみを奈良の地で民間の力ですすめるため、1980(昭和55)年、4団体も含む多くの団体・個人の参加により国際障害者年奈良推進協議会が発足しました。全国組織としては国際障害者年日本推進協議会があります。日本推進協議会は国際障害者年の年に『国際障害者年長期行動計画』を発表し、奈良推進協議会も『国際障害者年にあたり行政への提言』を発表しました。政府も1982(昭和57)年3月、『障害者対策に関する長期計画』を策定し、5年後の1987(昭和62)年6月。『障害者対策に関する長期計画後期重点施策』を発表しました。奈良県も遅ればせながら、この年の10月、『心身障害者に関する長期計画』を策定しました。85)」(「奈良の障害児教育白書」より)  このようにして、奈良県においても国際障害者年のとりくみが奈良県推進協議会によってすすめられ、奈良教育大学の柳川光章名誉教授が代表を務められ大きく運動が広がっていった。国際障害者年の後も「奈良県障害者・家族・県民のつながり祭」として毎年3500名以上の人々が参加する障害者運動の祭典として大きなつながりの輪を広げている。このように、国際障害者年とそれにつづく国連障害者の10年の大きな障害者運動の高揚の中で障害児教育や障害児学級も高揚期をむかえる。

(2)奈良県障害児教育研究会の動き
      中村隆宣氏からの聞き取り調査より86)

 1)事務局体制、障害児教育センターの開設
 昭和56年から事務局長体制になる。会長は松浦勇校長、初代事務局長は中村先生で幼小中高の連携を確立した。昭和56年障害児教育センターができる。やかましく設置をして欲しいといってきたがその設置の原動力に県障研がなっていた。同和教育研究会ともタイアップしてやれた。イデオロギー的には少し違うところがあるかもしれないが、提携してやってきた。日産労組からチャリティ公演に招待がはじまった。手をつなぐ親の会との連携としては、作業所の建設や知的障害者の体育大会への協力などがあり、県に大人は厚生課、子どもと女性は婦人児童課にいかなければならなかったので、障害については障害福祉課に独立するようにして欲しいという運動もした。
 2)国際障害者年とリハビリセンター
 昭和58年国際障害者年の流れにそって国際障害者の10年の行動計画をつくてほしいと県に要求してきたが当時の上田知事は「めったに、ほっておかない。いまにみておいてくれ。行動計画と名うってないけれどするから。」ということだったが、その一つがリハビリテーションセンターだった。国際障害者年は大きなうねりがあった。県障研は重い団体の一つである。
 3)第24回近畿特連奈良大会 昭和62年
 奈良県障害児教育研究会がこの近畿特連奈良大会での資料として、本論文の基礎資料とした「障害児教育百年奈良県記念誌」昭和54年のもとになった「奈良県の障害児教育」昭和53年全特連奈良大会の続きをまとめてもう一度「奈良県の障害児教育」を発行している。この昭和62年版の「奈良県の障害児教育」が現在の一番新しい歴史をまとめた文献となっている。「平成7年から8年にかけて近畿大会が回ってくるのでその時にまた歴史をまとめるだろう。」とのことである。

(3)県教育委員会の動き昭和60年
       「奈良県教育」障害児教育特集より

 奈良県教育委員会もこの時期にひとつの障害児教育のまとめとして「奈良県教 育」昭和60年度2号第74集 第826号に障害児教育特集を載せている。この資料は田中文嗣指導主事より提供いただいた。
 この中で学校教育課の「障害児教育の概要」と題した23頁にわたる記述と資料が載せられている。資料の中には、障害児教育沿革史(大正9年から昭和60年まで)と障害児学級児童・生徒数推移(昭和51年から60年)文部省・県教委指定心身障害児理解推進研究校一覧(昭和54年から61年)、就学猶予免除者と訪問教育対象児の推移(昭和48年から60年)、障害児教育センター事業実績等が載せられており、この後に障害児諸学校の概要として各養護学校の紹介が17頁載せられている。そしてこの時期の特徴と して、「心身障害児の理解」という題で奈良県障害児教育研究会会長の松井勇校長の文と、指導実践例として鳥見小学校の「共に学び共に高まることをめざして」という題の西の京養護学校との交流教育の実践が載せられている。実に53頁を障害児教育にあてて特集されている。このように、この時期は障害児教育が一定大きな力をもってきた時期であた。  とくに県の障害児教育センターが昭和56年に開設されて以来障害児教育の教育相談活動や障害児学級新任研修などが充実されていった。のちに昭和63年に奈良県立リハビリテーションセンターの開所にともない障害児教育センターもその中に移転し施設・設備も充実していった。現在は平成5年に奈良県教育研究所の開所にともなって組織統合され障害児教育部分館となっている。

(4)奈良の障害児教育白書について 平成元年

 
この時期のもう一つの障害児教育をまとめた文献として、奈良県障害児学校教職員組合と全国障害者問題研究会奈良支部と奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会の3者による「奈良の障害児教育白書 −養護学校義務制実施10年にあたっ て−」がある。これは、奈良教育大学 の大久保哲夫教授を中心に白書刊行委 員会がまとめたものである。大久保教 授のはじめにの中の障害児教育の歩み の部分には簡潔に奈良県における障害 児教育の歴史がまとめられていて本論 文に大きな影響を与えられた。とく に、この中で戦前の奈良女子高等師範 附属小学校の特別学級が設置されてい たことが記されている奈良県で最初の 文献ではないかと思う87)。また、?. 障害児学級の部分は奈良教育大学附属 中学校の藤森善正氏が執筆されてい る。障害児学級の現状として、障害児 学級の設置と就学状況や障害児学級の 予算、設備の現状を明らかにされてい る。また障害児学級担任の現状として 学級担任の年齢構成、障害児学級担任 年数、免許状の有無、障害児学級担任決め方、障害児学級担任の悩みなども述べられている。校内の障害児教育推進体制では校内の障害児教育推進委員会についてや校内研修、校内の適正就学指導、普通学級にいる障害児にまでおよんでいる。障害児学級の教育内容では、教育課程について次の3つに分類されている。?生活単元学習、作業単元学習を基礎にしている学級?原学級に基礎をおく学級?発達に視点をあてて取り組んでいる学級88) その他教科書採択や行事、交流・共同教育について等また進路保障の現状など総合的に奈良県の障害児学級の現状と課題を明らかにした注目すべき資料である。また、?.適正就学指導の部分では、奈良市の就学指導委員を長年努められている大安寺西小学校の藤井正紀氏が執筆されている。就学指導のシステムと就学指導委員会の現状では、就学指導委員会の設置状況と現状が明らかにされ、就学指導の実際と就学・教育相談では、就学免除・猶予の推移と障害児の「教育を受ける権利」の中で一応1986年以降は免除者は0になったものの就学猶予はまだ残されていることや教育を「受ける権利の実質保障が課題とされている今日、一層重要性を増しているのが長期欠席児の実態」89)であるということが指摘され適正就学指導の改善のために具体的な問題提起がされている点等注目すべき文献である。なお、詳しい内容につては「奈良の障害児教育白書」の本文を参照されたい。

(5)障害児学級の障害の種別の多様化 情緒障害児学級等の増加

 この間の障害児学級の発展には質的に大きな変化がみられる。昭和56年から平成2年までの10年間に奈良県の障害児学級数は昭和55年は359学級(小学校244学級中学校105学級)だったのが平成2年には618学級(小学校434学級中学校184学級)とこの間に259学級(小学校102中学校64学級)増加している。これに対して障害児学級の児童生徒数は昭和55年には1266名(小学校885名・中学校381名)であったのが、平成2年では892名(小学校609名・中学校283名)で374名(小学校276名・中学校98名)の減少になっている。つまりこの時期は障害児学級の児童生徒数が減少しているにもかかわらず障害児学級数は増加しているのである。障害児学級の平均1学級あたりの児童生徒数は昭和55年が3.5名なのに対して平成2年は1.4名となっている。これには県教委が1学級1名でも障害児学級の設置を認めるようになったことと障害の種別によって1校に複数設置されていったことが大きい。つまり障害児学級の種別の多様化による学級増だったといえる。また、校区論による養護学校反対の影響で障害児学級に障害の重い子どもがはいってきたことも原因していると思われる。特に障害種別でいえば、情緒障害児学級や肢体不自由児学級・病虚弱児学級が増加していった。学級種別で学級を増やすことによって障害の多様化と重度化に対応していった結果として生徒数が減ったのにもかかわらず学級が増加していったのである。このことが障害児学級に質的な変化をもたらしていく。

第5章 現在と将来への展望
   再構築の時代(平成3年から平成11年)

第1節 現在の奈良県の障害児学級の現状

 平成5年現在の奈良県の障害児学級数は665学級(小学校468学級・中学校197学級)で過去最高の設置数である。障害児学級の児童生徒数は992人(小学校639名・中学校283名)と昭和58年の1387名をピークに減少傾向にある。1学級あたりの児童生徒数は1.39名(小学校1.37名・中学校1.44名)で一層小規模学級化している。これは全国一である。(巻末統計資料参照)昭和26年に奈良県最初の障害児学級が開設して43年目の到達点としては全国的にみても条件的に一番恵まれているといえる。平成2年あたりから会計検査院の監査がきびしくなり障害種別について特に情緒障害についてはきびしくなる傾向にある。一方、就学猶予免除については、10名で免除は0名だが猶予が小学校6名中学校4名あり増える傾向にある。また、通級については難聴学級と言語障害児学級について今まで市独自で行われていたことばの教室やきこえの教室などの通級を正式に認めた形で実施されている。
 現在の奈良県の障害児学級で一番の課題は、1学級あたりの児童生徒数が1名から2名という小規模学級がほとんどであることから集団の保障ということである。とくに等質の同じぐらいの能力をもつ学習集団と生活課題を同じくする仲間集団をどのように保障していくのかということである。障害児学級では集団がつくれないので一般の学級の一員として原学級で学習することで集団の保障としていることが多い。行事や生活課題を達成するためには原学級はひとつの大切な集団であるが、学習課題では多くの面で能力的なギャップがある。そのために障害児学級での指導が行われるがどうしても1対1の個人指導になりがちである。しかし、学習課題を達成するためには発達課題を同じくする等質の集団の保障がどうしても必要である。それをつくりだす突破口となるのが通級制度ではないかと思う。あるいは、交流という概念でとらえられてきた取り組みの中にそのヒントがあるのではないかと思う。障害児学級同士の交流会や交流学習あるいは宿泊訓練など市内の障害児学級の担任者会を中心にかなり以前からこころみられているが、これを教育課程に位置づけて近隣の障害児学級に週に何時間か通級するということも一つの通級の形態として考えてもいいのではないか。また、養護学校にある時間だけ通級するということも同じようにできればさらに多様な集団の保障になるのではないかと思う。また逆に障害児学級に養護学校の校区の生徒が通級するということも考えられる。通級という概念を学習障害や軽度の障害児が普通学級に在籍しながら障害児学級に通級するというだけの狭い意味にとらえるのではなく、もっと総合的柔軟に考えていく必要があるのではないか。いつも、問題になるのは通級するときの交通機関等の利用とくに教師の自家用車で移動することが多いのでどうしても事故の事が問題になる。教育の制度として確立していないために保障は個人にかかってしまうことがネックになるのである。学校安全会などの制度的な整備が必要である。今の制度としての通級は知的障害の場合は除外されているので早急に改善が望まれる。

第2節 将来への展望

 現在はあらゆる分野で再構築の時代であると言われている。障害児教育においても2001年の21世紀めざして大きな再構築の時代なのではないかと思う。平成5年11月26日の参議院本会議で「障害者基本法」が全会一致で可決成立した。この法律は今後の21世紀をめざした障害者基本計画の策定を国に義務付け、都道府県、市町村も障害者施策の基本計画をたてるとういことを明記している。また「すべての障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他のあらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする。」とあるように、障害者のあらゆる分野の活動への参加の推進を基本理念としている。また、付帯決議として「てんかん、自閉症や難病に起因する障害によって生活に支障がある者」また「精神障害」も障害者にふくまれることを決議している。この障害者基本法によって教育も21世紀めざして今後大きな変革が求められている。たとえば、養護学校においては障害者トイレ等の設備の改善は進んでいるけれど、一般学校では障害児学級があって車椅子の必要な生徒がいても障害者用トイレひとつないのが実情である。養護学校があるから普通学校には障害者用トイレは必要ないという時代は終った。あらゆる活動に参加する機会が与えられるものとするという理念からすれば、普通学校にも通級や交流を通して参加することがあたりまえになる時代がくる。国や県・市が障害者があたりまえに生活できるように施設・設備の改造にかかる費用を負担する制度が望まれる。新しく造る新築の学校には建築基準の中に障害者の配慮した基準をもりこんでいく必要がある。最近、近鉄等の交通機関の駅にエレベーターを設置する工事があいついでいる。そういう意味では学校が一番遅れているのではないだろうか。施設・設備というハードの面だけでなく教育本来のソフトの面の創造開発が望まれる。その意味では21世紀に障害児学級が果たすべき役割には大きなものがある。現在、能力観にまた大きな再構築がせまられている。偏差値のない進路指導や学校5日制や新学力観など自ら考えられる自己決定のできる個性のある子どもにという動きがみられる。障害者福祉においても「自己決定」が新しいキーワードになっている。戦前の大正新教育で言われた自学自習と個性に通ずるものをこの「奈良県の障害児学級の歴史について」の研究を通して発見したように思う。そして、いつも、一番だいじなことは、教師のなんとかしたいという子どもへの熱い思いなのである。そのことに気付かせてくれたのもほかならぬ、この歴史研究を通してであった。はじめに引用した西久保奈良石氏のことばはそのことを教えてくれているのである。

さいごに 

 奈良県の障害児学級の歴史について研究をはじめたものの、戦前から現在までの幅広く奥深い資料の前にどうまとめたらいいのか難しく、引用文がほとんどで暗中模索にすすめてしまった。しかし、一応、奈良県の障害児学級の歴史についてのアウトラインは描けたのではないかと思う。これには、ゼミで的確な方向性を示していただき多くの示唆を与えていただいた菅田洋一郎教授のおかげと深く感謝しております。また、資料や聞き取り調査に協力いただいた、西村先生、阪口先生、吉田先生、中村先生はじめたくさんの方々のご協力のおかげと感謝しております。本当にありがとうございました。  なお、本研究で不足している資料として親の会や父母の障害児学級に関する資料と同和教育からの障害児教育の資料があると思います。また、校区論と発達保障論や国際障害者年に関する資料と記述が不足している点、最近の障害児学級についての具体的調査、概論的なものから焦点をしぼった研究等、今後の課題とします。

                    1994年1月31日


ueshima@sikasenbey.or.jp
1998.3.1

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