(1)基礎文献「障害児教育百年奈良県記念誌」より
昭和に入って桜井小学校(現桜井市立)で、いろいろな教育方法の試行をされた が、昭和2年から3年年にかけて2年生約200人の中から身体的に虚弱な児童や、 精神的に遅れとまではいかずとも、例えば極度に内気なために学級から落ちこぼされ るような児童を約15〜20人をあつめて『養護学級』とし、時には日光欲をした り、椅子も安楽イスを用いるといった配慮をめぐらし、特別なカリキュラムのもとに 指導した。さらに故西久保奈良石が中心となり、4年生の中からとくに今でいう、 ちえ遅れの児童を収容して『遅進児学級』を開設した。これは父兄その他から少なか らず意見がよせられたようであるが、先生の教育者としての信念姿勢に心服して、大 勢の父兄が子女をあずけたということである。学習の成果を先生は、昭和3年「劣等 児教育の実際的研究」と題して世に発表している。また、一方、小学校5年生を能力 別の3クラスにわけて指導したり、4年生以上高等科2年生まで全員を、朝30分早 く登校させ、8時から1時間『自由学習』として、地 理、国語、算数など児童、生 徒が自由に選択して講座に参加させ学習をしたということであるが、満州事変、支那 事変等の勃発によってやむなく中止せざるを得なくなったもようである。(玉川学園 大学編纂「日本教育の百年史」にこのへんの様子が記述されており興味深いものがあ る)12) 以上、「障害児教育百年奈良県記念誌」31頁(1)障害児学級の発 祥 の中の戦前の桜井小学校の部分の記述である。この記述をもとに調査をはじめ、 西久保奈良石氏の「劣等児教育 の実際的研究」と玉川学園大学編纂「日本教育の百 年史」の2文献を探した。そ の結果、「日本教育の百年史」は「日本新教育百年 史」13)第6巻近畿 (玉川大学出版部 小原國芳編 昭和44年)であることが わかった。
(2)大正新教育と福島楢二14)について
この「日本新教育百年史」第6巻にもとづいて桜井小学校についてわかったこと は、西久保奈良石の昭和2年から3年の取り組みの前提となるものとして大正新教 育を無視しえないということである。即ち、第2章 新教育をリードした桜井教育に あるように福島楢二校長を中心に大正10年から全国を相手に5回も初等教育研究大 会を開催し全国的に有名な大正新教育の推進校であったことである。福島楢二校長 は、「ほんとうの人間教育をやってみたい、知識注入でなく、早生の人間形成でな く、児童の自由自主自学の教育を確立してみたい15)」という抱負のもとに画期的 な新教育を展開した。「教育の根源は教師自身にある。だから一にも二にも優れた教 師を集めねばならぬ。16)」と述べ、『進みつつある教師のみ、人を教うる権利あ り』というジステルエッヒ17)の教師訓にもとずいて優秀な教師を他校よりも一号 俸高くしてでも採用していたという。当時の様子を大正13年の卒業生である保田輿 重郎18)が桜井小学校百年史のなかに小学校の思い出として次のように書いてい る。「・・福島楢二校長がこられたこの頃から桜井小学校は、当時として新しい自学 自習という趣旨の自由な教育方針を行って、その成果を見せるために、毎年小学校教 員を集めた研究会を催していた。全国から千人も教員が集まったといっていた。この 時の指針は、ダルトンプランだったということを聞いていたが、10年も後にその意 味を知った。教室の机の並び方も、児童が四方から向い合って8人位を一集団とし、 ほとんど自習本位だったが、区切りごとに児童が質問したし、先生が説明や要点や注 意をされたようだった。すぐれた先生が集まったからできたことだった。当時は学校 所在町村の方針によって、先生を優遇して秀才を集めることができたそうで、大正時 代の桜井町は教育熱心だったが、このことは明治のはじめからこの町の伝統だった。 桜井という所は、幕府時代から自由な町だったのである。・・19)」この中に出て くるダルトンプランこそが桜井の教育を解く鍵である。
(3)パーカーストのド ルトンプランとのかかわり
ダルトンプランとはアメリカのパーカーストによってマサチューセッツ州で計画実 施された児童の能力に応じて学習目標と内容を定めて教師と学習作業についての契約 を結び、各学習室において教師を相談相手として学習を進める教育法ドルトンプラン のことである。 Education on the Daltonplan .1922年 パーカースト著 日 本訳としては1922年に赤井米吉氏によって「児童大学の実際」として出版されてい る。赤井米吉訳 中野光編 「ドルトンプランの教育」世界教育学選集80 1974 年 の中野光の解説によると、ドルトンプランと障害児教育とのかかわりという点 で注目すべき指摘がある。即ち、パーカーストがドルトンプランを確立するまでに障 害児学級でこのプランを実施して注目すべき成果をあげ、その成功がドルトンプラン が生まれる直接の契機になったというのである。そしてさらにさかのぼってパーカー ストがイタリアのモンテッソーリ(1870〜1952)に学ぶためにイタリアに留学し ていたのである。以下引用する。 パーカーストは1914年モンテッソーリに学ぶた めにイタリア留学。モンテッソーリはローマ大学で女性としてイタリアで最初の医学 博士で、精神病患者の看護・治療やいわゆるちえおくれの子どもたちの教育体験にも とづき「モンテッソーリ教育法」(Montessori Method)を創案して有名になっ た。その教育原理は「子どもの自由−すなわち子どもの本性の個人的自発的発現の発 達を許すような自由」(The Liberty of the child - such liberty as shall permit a development of indvidual, spontaneous manifestation of the chaild's nature) 子どもの自由な自己活動を精神的、身体的発達の基礎とする教育 改造を志向しつつあった。この教育に学んだパーカーストは1915年にカリフォルニ アでモンテッソーリ教育法の実施に参加し、1919年には、パークシャの障害児学級 でこのプランを実施して注目すべき成果をあげたのだった。この成功がドルトンプラ ンが生まれた直接の契機なのだった。すなわち、パークシャの学校の経営者であった クレーン夫人(W.M.Crane)はパーカーストの教育的識見と力量を高く評価し郷里の マサチューセッツ州の小都市ドルトン(Dalton)の中等学校において教育計画を実 施した。時に1920年(大正9年)2月のことであった。「ドルトン実験室プラン」 Dalton Laboratory Plan いわゆるドルトンプランDalton plan はこのような経過 をたどってできあがり実施された。20) このドルトンプランの重要な観点は 「子どもらを単なる教授の対象とするのではなく、学習の主人公としてとらえなおし た」ということである。これこそ大正新教育のめざしたところであり、奈良女子高等 師範附属小学校の主事木下竹次が唱えた奈良の学習法につながるものである。ま た、ドルトンプランそのものに障害児教育とのかかわりが内包されていたことはひじ ょうに示唆的である。当時の桜井小学校は大正新教育のメッカといわれた奈良女子高 等師範附属小学校にさかんに授業参観に行ったり、また女子高等師範の教授や訓導ら が桜井小学校の実地指導に来たりして多くの影響を受けた。大正11年の桜井小学校 の第2回教育研究会では奈良女子高等師範附属小学校主事木下竹次が「学習につい て」と題した講演をしている。この桜井小学校の新教育は全国的に有名になったが、 県や郡視学からは警戒視され福島楢二校長は大正14年3月、突然転勤を命じられ る。しかし、その後も2回全国初等教育研究大会を開き、映画研究会や促進学級研究 会21)などに受け継がれていく。
(4)西久保奈良石の劣等児教育の実際研究より
このように、桜井小学校でのドルトンプランによる大正新教育の実践という土壌の 上に様々な成果が昭和初期に花咲いていく。その一つが昭和3年に出版された西久保 奈良石の「劣等児教育の実際研究」である。この文献の発見は困難をきわめたが奈 良県立橿原図書館に所蔵されていた。その内容に入る前に、西久保奈良石氏が桜井教 育の回顧(座談会)の中で大正新教育と劣等児教育のかかわりについて次のように述 べている。「・・大正も半ばごろから従来の教育から脱皮し、新しい曙光を迎えたの である。自由主義、児童の生活尊重、労作体験を重んじ、個性発揮により協力社会の 完成等々と、一大変革が要求せられたことである。幸いにしてわが桜井小学校もこれ らの潮流 をよく消化し、特別教室を整備して、始業前1時間の『自由学習』時間の 特設をみた。やがて養護を主にした『養護学級』、劣等児を中心にした『促進学級』 を特設した。これらの養護学級や促進学級の特設は、新教育が、個性を尊重し、児童 の生活、体験を重視するたてまえから、当然生まれるべき性質のものである。こうし た学級に編入された児童は、みんな一様に、それまでみられなかった生気あふれる学 習態度に変ったことは今なお、私の印象に強く残っている。それが近隣の学校にも父 兄にも聞こえて、わざわざ転校する希望者さえでてきたのである。22)」 さ て、新教育から当然うまれるべき性質のものとしての西久保奈良石氏の「劣等児教育 の実際研究」であるが、その内容から「養護学級」と「促進学級」の二つの点に注目 してみたい。昭和3年の桜井小学校の学級編成として次のような編成を組んだことが 記されてある。
第3章 第2節 吾が校学級編成と劣等児教育
昭和3年度各学年学級編成
第1学年 イロハの3学級 児童の生年月日別 各学級 男女合併
イ組 最年少者 虚弱児、劣等児 促進学級 52名
第2学年 イロハの 3学級 イ組 虚劣の特別学級 40名
後の2学級 能力平分の男 女学級
第3学年 イロハニの4学級
イ組 養護学級 34名 校医診察の結果
ロ組 促進学級 31名 知能検査により 他の2学級
性別により男と女の編成
第 4学年 男、女の2学級 性別による編成
第5学年 男、男女、女の3学級 性別 による
第6学年 男、男女、女の3学級 性別による
高等1年 男、男女、女の3 学級 性別による
高等2年 男、男女、女の3学級 性別による
5年以上 算術 科のみ、優、中、劣の3組に毎時編成替え能力別 劣等児、虚弱児救済の為の特別
学級が4学級あり、 能力別取り扱いを加味したものに算術科 編入児童は固定的
なものでわはない。その児童の促進程度により随時他学級へ復帰しまた他学級より編
入される者もあるという移動的のものである。23)
この学級編成の特徴は各学年 の特性によって基準がちがうことである。1年生は生年月日別が基準であり、3年生
以上は性別により編成されている。そして、特別学級の編成も学年の枠内での学年の
学級の一つの中に位置付けられている。特別学級に対する教員の配置が無かったこと
に起因するが、学校内の学級編成の工夫によって養護学級や促進学級を運営していた
ことがうかがえる。当然1学級あたりの児童数は多く4学級あったが、1年イ組の促
進学級52名、2年イ組虚劣の特別学級40名、3年イ組養護学級34名、ロ組促進
学級30名となっている。虚弱児と劣等児という二つの要素が特別学級の基準となり
純粋な知的障害児を対象としたものではなかったようである。のちに特別学級が虚弱
児を中心とする養護学級が増加するひとつの先駆けともいえる。奈良女子高等師範附
属小学校の特別学級が劣等児及び低能児をも対象として取り組まれていたことを考え
ると昭和初期に入り低能児教育と劣等児教育が分化してどちらかというと虚弱児教育
を対象とした養護学級との結び付いていったことが桜井小学校の西久保奈良石氏の取
り組みの中からうかがえる。もちろん、西久保奈良石氏も低能児いわゆる精神薄弱児
についても言及しているが主眼は劣等児であり虚弱児とのかかわりが現実の取り組み
の中では大きかったようである。 「劣等児教育の実際研究」の中で西久保奈良石
氏は、実際教育ということを強調している。「実際教育は思索ではなくして仕事であ
る。一つの実在を具体的に特殊的に創造してゆく実行そのものである。真に具体実現
されてゆく事実を意味したものである。理論は往々にして実行、実際を裏切るもので
あるが、同様に理論的に考えられた教育目的、又その方法はその儘実際教育の目的、
方法となり得ない。・・吾々実際家は、・・・理論としてでなく、同行人として個々
の児童を深く凝視しそこに教育を仕事せねばならない。更に換言するなら個々の児童
の裡から教育原理を発見し、創造しなければならない。もう教育原理を単なる理論と
して論議する時代は過ぎた。眼前の児童に就き、彼等の事実が如何あるかを先ず究明
せねばならない。吾々はそれを忘れていた。24)」というところからはじまる。書
名も実際的研究ではなくあえて実際研究とあるのも意味のあることなのである。そし
て、劣等児教育の提唱として「劣等児教育は、劣等児を救済するという立場にある。
救済するという心情の奥底には大体二つの意味が存する。一は劣等児の、能力低きも
のの現在及び将来を考察した時、人間として社会人として余にも不撓な生涯であるこ
とを又あろうことを、色々の事実より知り予覚し人道的愛に目覚めての心情であり、
二は劣等児を第三者的に眺め、彼等より受ける影響、それは忽にすべからざる悪影響
障害であるが其を除去せんとする社会政策、または刑事政策の上からである。前者は
人道的見地に立ち、後者は社会的見地にたつ。言い更へれば彼等の生涯にも幸福を招
来せしめ生活を確保してやる為、又社会の負担とならざるに至らざるもせめて軽減せ
んとする為である。この二つの見地より学校教育中に彼等を救済せんとするのが、劣
等児教育である。25)」
(5)戦後の障害児学級とのかかわりについての一仮説
戦前にける桜井小学校での養護学級と促進学級の取り組みがいつまで続いたかにつ いては、はっきりした資料はみあたらないが、少なくとも西久保奈良石氏が昭和7年 3月31日まで桜井小学校に在職されたことは確認されている。また、昭和6年2月 の文部省精神薄弱児童養護施設講習会に西久保氏が参加して、「促進学級の経営根底 桜井尋常高等小学校訓導 西久保奈良石 」26)として研究発表していることか ら考えて少なくとも西久保奈良石氏の在職中はあったことは確認できる。戸崎敬子氏 の「特別学級史研究」では「1941頃(昭和16年)まで存在か?」とある27)。 基礎文献とした「障害児教育百年奈良県記念誌」の記述からも満州事変(1931年昭 和6年)支那事変(1937年昭和12年)等の勃発によってやむなく中止とある。こ のようにして消滅した戦前の桜井小学校の取り組みが戦後の障害児教育にどのように つながっていくのだろうか。つながりは全くなかったのだろうか。ここで、一つの仮 説であるが、戦後の奈良県最初の障害児学級設置にかかわる人物として中西正治2 8)氏が、実は昭和6年3月31日から昭和21年3月31日までこの桜井小学校に 勤務していたのである。昭和6年には西久保奈良石氏が全国で発表した年であり中西 氏も促進学級や養護学級について知りえたと思われる。昭和26年この中西正治氏が 県教育委員会指導課の課長補佐であった時に奈良県最初の特殊学級の設置を指導した 中心人物だったのは、桜井小学校の背景を無視できないというのが私の仮説である。 追記、西久保奈良石氏のその後であるが、昭和18年3月31日から昭和21年9 月27日まで天理市檪本小学校の校長として勤務。
<注と引用文献>
11)桜井小学 校は大正10年から全国的な教育研究大会7回開催。校長福島楢二、桜井の教育とし
て全国的に有名になるドルトンプランによる新教育の実践校。
12)障害児教育百年 奈良県記念会(1979):障害児教育百年奈良県記念誌,奈良明新社,第4節 精神
薄弱教育 障害児学級の発祥,31頁。
13)小原國芳編(1964):日本新教育百年 史 第6巻近畿,玉川大学出版部 438〜460頁。
14)福島楢二氏は大正8年6月 から14年3月まで桜井小学校校長として大正新教育の実践の中心として活躍、全国
大会を5回開催、労作教育を推進。
15)日本新教育百年史 第6巻近畿,玉川大学 出版部 439頁。
16)同上,489頁,補遺。
17)ドイツの最初の師範学校の初代 の校長。
18)保田輿重郎:日本浪漫派の評論家,桜井小学校の大正13年の卒業 生。
19)桜井小学校創立百年記念誌,88頁,桜井教育の思い出。
20)赤井米吉訳 中野光編(1972):ドルトンプランの教育,世界教育学選集80,202頁。
2 1)昭和3年 促進学級研究会,桜井小学校百年史、77頁。
22)日本新教育百年史 第6巻 ,481〜482頁,桜井教育の回顧。
23)西久保奈良石(1928):劣等児 教育の実際研究,教育書館,72頁。
24)同上,1頁,第1章 第1節 実際教育と 劣等児教育。
25)同上,7頁,第1章 第2節 劣等児教育提唱の根拠。
26)精 神薄弱児童養護施設講習会概況(昭和6年):「学校衛生」第11巻206−209頁,
文部省精神薄弱児童養護施設講習会に西久保氏参加,15、特別学級の配置に依り差別
的観念を輿ふるの弊を認めざるや若し認むるならば之を如何に処置すべきや 16、
特別学級と普通学級との教科進度と関係並特別学級の時間配当は之を如何にすべきや
以上桜井尋常高等小学校西久保奈良石
27) 戸崎敬子(1993):特別学級史研究 −第二次大戦前の特別学級の実態−,多賀出版
,248頁,付録T先行研究等にもと ずく第二次大戦前の「特別学級」(学業成績不良,精神薄弱)の事例,奈良県 桜
井。
28)中西正治氏は昭和6年3月31日〜21年3月31日まで桜井小学校勤務。戦後 昭和26年に奈良県教育委員会指導課課長補佐の時、奈良県最初の障害児学級の設置
を指導。後に高田市の教育長。